コロナで、色んなイベントが中止になっています。
コロナの感染クラスターを生み出さないためにも、イベントの中止はやむを得ないと思いますが、
国・自治体の政策判断に紐づいているので、中止に対してなんらかの補償がなされるべきであると思います。
ただ、こういう事態のとき、
世の中には、なんでも、
〇〇は不謹慎だ!やめろ!と自粛を煽る層が一定層います。
海外ではあんまりそういう空気ができることを聞いたことがないですが、
おそらく、日本で特に強いんじゃないでしょうか。
僕は、
日本でそういう主張が強い背景には、
日本特有のムラ意識があると思います。
みんな同列で、みんな一緒。
色んな文脈(言葉にしない行間の文化) も共有していて、
周囲にどう見られるか、気をつかいあっている。
「空気」を読む、の「空気」に近いと思います。
山本七平は、著書「『空気』の研究」にて、
「日本人には常に、論理的判断での基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きている」と喝破しました。
そのうえで、
「通常口にするのは論理的判断の基準だが、
本当の決断の基本となっているのは、『空気が許さない』という空気的判断の基準である」と述べています。
日本人は、絵もいわれぬ空気を大事にし、周囲に気を使っているからこそ、
自分が我慢しているのに、誰かが傍若無人に振る舞ってるのを見ると、腹が立つし、不謹慎だ!
と言いたくなる。
自分が勝手に気にして、勝手に抑えてるだけなのに、
他人にもその「気遣い」を強制しようとする。
出る杭を打ってるんじゃなくて、
出ないように一緒に収まろうとする。
みんなで守れば安心だ、抜け駆けは許さない!みたいな。
不謹慎だ!という現象自体は、
同調圧力という言葉で表せると思います。
そして、その同調圧力の正体は、
「"まだ見ぬ同調圧力の影"に気を使って、
勝手に同調して欲望を抑えた結果、他人が自分に倣わないことが気に食わないことからくる非難」
だと思います。
例えば、社会人になって、
「損しないような振る舞いをしなさい」とよく指導を受けます。
僕はその指導自体はありがたいと思っていますが、客観的に考えると、そういう言い方自体、"同調圧力の影"を意識したものだと思います。
(ただ、損しないように、というアドバイスは先輩も同じように昔振る舞って、よく思われなかったという教訓が前提になっていると思いますし、それに対する不満を基にした話ではありません。世の中の不謹慎世論に対してのものです。念のため。)
だから、
同調圧力なるものは、
みんなその影に怯えてるだけで、
実は、そもそも存在していないのかもしれません。
まとめますと、
不謹慎だ!という人は、実は同じことをやりたくて、我慢しているからこそ、不謹慎だ!と言いたくなる。
その我慢の裏には、勝手にあると思って気にしている「空気」(同調圧力)が存在しているが、そもそも、同調圧力なるものは存在しないのではないか?
勝手に怯えてるだけなのではないか?
という話でした。
※参考
なんか以前にも、同調圧力について書いてました。
「同調圧力と多様性」