三男日記

愛知県蒲郡市出身、東京の会社に就職し、今大阪におります藤田啓介と申します。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

人口減の日本

2020年に生まれた子供の数は84万人と、過去最少らしいです。

 

出生数、過去最少の84万人 婚姻が急減して戦後最少に:朝日新聞デジタル

 


朝日新聞の記事によれば、政府の推計よりも3年早く84万人台に入ったとのことです。

 


出生数絡みでは、中国も人口減少に歯止めをかけるため第三子を合法化するようです。

 

中国、第3子容認: 日本経済新聞

 


そのほか、アメリカやその他先進国でも、人口問題は大きな問題になっています。

 


日本では、その対処として、「少子化」問題として大臣も置かれて対策されており、最近で子ども庁の創設が言われていたり、保育支援などがおこなわれています。

 


ただ、僕は、少子化対策には限界があるような気がしています。

 


世の中が成熟し、女性も社会進出している中で、多数の子供を産んでくれ、ということ自体に限界があるように思います。

 


まさにそういう価値観がメインになっているからこそ、「子供できないの?」という夫婦への偏見につながったりしているんだろうと思います。子供は産むもの、という価値観による弊害。

 


ただ、ちょうどまさに今改正育児介護休業法が成立し、まさに、男性育休の社会的支援が進もうとしていますが。

 

改正育児・介護休業法とは 男性の育休取得を促進: 日本経済新聞

 


お金如何にかかわらず、子供の問題は人生設計の問題であるわけで、少子化対策で保育園が無料だから、といってバンバン生むか?と言われたらそうじゃないような気がします。

 

(もちろん、今の少子化というか、子ども産業の支援として、例えば今の保育士さんの待遇改善など、今やれることはたくさんあるとは思いますが、それはそれとして、そういった施策が少子化対策に繋がるわけではないと思います)


少子化の問題点としては、そもそも人口減少して経済・社会システムへの影響が大きいことだとするならば、僕は人口減少を一定受け入れた議論もあって然るべきではないかと考えます。

 


生産性をあげよう、という議論に近いですが、日本はまだまだ規制が様々あり、

例えば農業、例えば教育、例えば自動運転、例えばデジタル化など、比較的厳しい規制が敷かれています。

 


そういった規制を緩和することはもちろんですが、さまざまな労働規制を緩和することで、生産性を上げる方向の話に重点をおくべきではないかと考えます。

 


または、そもそも人口を減らさないために、移民を受け入れる、という結論も、世論の同意が得られればありうる気がしています。

 


(技能実習生は、悪しき日本の曖昧主義の結果として搾取の構造で成り立ってしまっているケースで、ちょっと違います)

 

 

単純に、人口減少→少子化対策、ではなく、もっと一人一人が子供を産まなくてもいきいきと暮らせる社会を作っていくことが大事なんじゃないでしょうか。

 

働き方改革ならぬ、産み方改革、家族の在り方改革、が必要なんじゃないでしょうか。

本屋という出会いの交差点

緊急事態宣言で、多くのお店が閉まっていますが、僕の家の最寄駅にある本屋もその一つです。

 


なんか、時々無性に本屋に行きたくなるんですよね。

 


本自体はネットでも買えるんですけど、

本屋で、自分が興味のないはずだった新しい本を見つけたり、雑誌の特集で面白そうなものがないか探したり、興味をそそられることが楽しいんです。

 


小さい頃から本屋に行くことが好きでした。

 


緊急事態宣言で本屋が閉まって行けなくなったことで、

本屋で自分が気の向くままにいろんな本に触れ、いろんな知的刺激を受けられること、しかも無料で空間を味わえることが、ありがたいことなんだなと実感しました。

 


こんな記事を読みました。

 

本屋を失った街に三省堂書店が現れた日―北海道の留萌ブックセンター(上) | nippon.com

 

 
過疎の地方で、本屋を守るために街の人が力を合わせて本屋を盛り上げたというニュースです。

 

(この記事でかかれているように、本屋があることでどんなに田舎でも本の発売日に新しい本をすぐ読めることがすごいことなんだなと知りました。流通すげえ!)


本はネットで買えるけど、本屋という空間って街に欠かせないように思えます。

 


空間自体は無料なんだけど、自分のお金で、あらゆる本の中から、自分の興味を満たすものを選ぶ体験。

 


脳が常に刺激されている。

でもいつのまにか脳がリラックスしている穏やかな空間。

 


余談ですが、本屋でトイレしたくなることを青木まりこ現象といいますが、僕もよく本屋に行くとトイレに行きたくなります。

 


原因は紙の匂いだとも言われますが、

僕は脳が無意識にリラックスするからだと思います。脳の神経系が弛緩するからこそ、トイレに行きたくなる。

 


だからこそ、蔦屋書店×スターバックスみたいな取り組みや、本のある空間を有料化した文喫のような取り組みが出てくるんだと思います。

 

文喫 BUNKITSU | 本と出会うための本屋。

 


そういう意味だと、ある意味本屋は公共インフラだとも言える気がします。

 


でも、留萌のような取り組みを見ると、本屋ってインフラなんだけど、皆で作り上げていく共創空間なんだなという気がしました。

 


単に本を売る場ではなく、お客さんと書店員と作家のコミュニケーションの交差点が、本屋。

 


いろんな出会いが混ざり合って初めて成立する場所なんですね。本屋は。

 


そんな、いろんな出会いで脳を刺激して、でもリラックスさせてくれる本屋の空間を享受できることのありがたみを感じている今日この頃でした。

 

麺の硬さを選びたい。

ラーメン屋で注文したときのことです。

 


最近必ず聞かれるのが、「麺の硬さはどうしますか?」というやつ。 

 


僕が小さい頃はそんなこと聞かれることなかった記憶があるんですが、今や街のラーメン屋あらゆる店で、聞かれます。麺の硬さ

 


その時、僕は毎回困るんですね、、、

 


硬いのもいいし、でも硬すぎてもなーー

柔らかいのもいいけど、でもふにゃふにゃすぎたやつが来たらどうしようーー

みたいな。

 


ちょっと悩んじゃうんです。

 


その結果、出てくるのは、

うーん、えーと、普通で。」というおなじみの言葉。

 


結局、毎度お馴染みの普通麺になっちゃうんです。

(それはそれで店によって普通の硬さが違うからいいんですけど。)

 


僕が踏み切れないのは、多分硬麺と柔らかい麺の違いがよくわかっていないからだと思います。

 


麺についてもっと知ってたら、普通を選ぶなんてことにはならなかったのに。

 


麺のことを知ってたら、硬麺はこう、柔麺はこう、といったような、それぞれの特徴を理解して、気分に応じて選べてただろうな。

 


それなのに、「普通で」とか言ってしまって、何の変哲もない普通の麺を選んでしまった自分がいます。

 


これからは、「普通で」と言わない人になりたいです。

 

自信を持って麺の硬さを選べる人になりたいです。

 


何かを「知る」ことって、そういうことをできるようになることが増えるってことなんだろうなと思います。

 


そのジャンルを知ってたら、例えばコーヒーも選べるし、ワインも選べるし、デザインも選べる。

 


知るって、自分の選択肢の可能性を広げてくれることなんだなと、ラーメンを通じて痛感しました。

 

「ミスなき社会」は正義か?

コロナ禍によるダメージで経済的に大変な方に向けた公的な支援がたくさんあります。

 


1人一律10万円配られたものもそうですし、休業補償金や、雇用調整助成金などなど、、、

 


ですが、なかなか支給が進んでいない現状をよく聞きます。

 

「時短要請に応じたのに協力金が支給されない!」 東京都の支払い遅延に憤る外食企業:協力金支給率たったの18.9%(1/3 ページ) - ITmedia ビジネスオンライン

 

 

どうやら、書類を確認して、不備を埋めるなどの手続きに時間がかかるようです。

 

参考:こんな記事もいっとき話題になってました。

なぜ10万円給付に時間がかかるのか|東修平(四條畷市長)|note

 


一刻を争うお金なのに、手続きが煩雑で、申し込む側も、申し込まれる側も、双方に過度な負担がかかっている状況だと思います。

 


アメリカだと、同様の給付金は2週間弱で届くくらい、スピーディな対応だそう。

給付わずか3割、滞る政府の家賃支援 「早く助けて」個人事業主ら悲痛:東京新聞 TOKYO Web

 

 

もちろん、それは、手続きの処理上のスピードも大きいと思います。上記のニュースは個人給付についてですが、アメリカは社会保障番号が普及し、それが口座と紐づいているため、デジタル上ですぐ支給できる。

 

一方で日本はマイナンバーすら浸透していない始末。

 


ただ、そういったソフト面での違いはあるかもしれないですが、1番はマインドセットとしてのOSの差なんじゃないか?と思うわけです。

 


それはワクチンにすごく現れています。

 

これは、日経新聞の記者のルポですが、アメリカのワクチン接種の現状がつぶさに描かれています。

 

米接種、スピード優先: 日本経済新聞

 

初回の接種のときから、現場で確認されたのは名前と生年月日くらい。

 

病院内の混雑が緩んだことと医師や看護師が手順に慣れたおかげもあり、2回目の接種のために病院に滞在していた時間は30分ほどで済んだ。

 

問診票は書くものの、住民であることを示す証明書の提示を求められるわけでもない。言い方は悪いが極めて緩い。

 

最後はこう綴られます。

 

58万人超という日本とは比べものにならない多数の死者を出しながら、なぜ米国はなお楽観的でいられるのか。

 

ワクチン接種の現場から感じるのは、細かな無駄は気にせず、とにかく圧倒的な物量で兵たんを充実させ、最後に勝てばいいという思想。戦時と同じ超大国の発想で、米国はコロナと戦っている。

 

アメリカは、今を戦時中と捉え、ワクチンを行き渡らせることが最優先。
(もちろん、ここまで緩いのは、接種が一定程度行き渡ったこともありますが、それにしてもです)

 


一方の日本は、丁寧に丁寧にミスのないよう手続きする。じゃないとミスを突かれて批判されることを恐れているからでしょうか。

 

※首長のワクチン接種も批判されてますしね。

首長のワクチン接種はアリか? - 三男日記

 


また、ひどいなと思ったのは、急いで作り上げた接種予約サイトの不手際を、それみたことかというように叩くメディアの姿勢も問題だと思います。

(この場合、権力を監視するというジャーナリズムを履き違えていて、手段が目的になってしまっているように思えます)

 

岸防衛相「不正な予約は接種機会を奪う悪質な行為」 ワクチン大規模接種の予約システムは「可能な範囲で改修」 - ITmedia NEWS

 


今は戦時中なのだから、ある程度のミスを許容してまでも、急ぐべき理由はあるはずです。

 


ワクチンも然り、給付金も然り。

 


ミスがあれば、後で戻せばいいし、多く給付しちゃったりしても、行き渡るべきところに行き渡れば、誰も文句は言わないでしょう。というか、言わない社会であってほしい。

 


ノーミスしか許されない社会を続けていることの限界が、コロナで露呈したように思います。

 


普段は多様性の文脈で語られることの多いノーミス批判ですが、コロナ禍を経て、社会のOSとして、ノーミス信仰が前提にあることの弊害が顕著に見られたように思えます。

 


少しくらいミスっても許される社会であってほしいなと思います。

リスクを取ること自体評価されるべき。

「ゼロリスク」と言いながら、実は「ハイリスク社会」な日本の不思議(山口 真由) | FRaUhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/83472?imp=0

 

この視点は、その通りだと思いました。


日本は、ゼロリスクを歌ってるにも関わらず、リスクを取った人を過度にバッシングしている。

 


ここに書いてある吉村知事も、かつては大阪モデルで全国の先駆けとして注目されていましたが、他の都道府県より早く緊急事態宣言を解除したことを背景に、今や大阪の感染拡大の責任は全て吉村知事にあるかのようです。

 

吉村知事 宮根の「最近TV出るたび叩かれてる」指摘に「色んな批判あると思う」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

 


本来であれば、吉村知事の責任は、経済を守るメリットと、感染拡大防止のメリットの双方を天秤にかけて議論されるべきものだと思います。


緊急事態宣言を継続させることで、経済に与えるダメージを抑えることのメリットと、

緊急事態宣言を出し続け、感染拡大を抑えることのメリット。

 


どちらが正しいという結論は出るわけがなく、首長は一身に責任を背負って判断するわけですが、当然、緊急事態宣言を維持した方が、自分の評価を守ることにつながります。


なぜなら、誰も緊急事態宣言を出し続けることには批判しないけれど、緊急事態宣言を解除してたとえ経済が少し回復したとしても感染拡大が止まらなかったら、批判にさらされてしまいます。(感染拡大によって被害を受ける人の方が"一見"多いため)

 

 

日本社会は、人と違ったリスクをとった決断をした場合、その決断をしたこと自体は評価されず、結果だけ見られます。チャレンジしなくて現状維持した方が、なんなら評価されがちなのは、その通りだと思いました。

 

 

冒頭の記事で山口さんが言っているのは、そんなことを続けてると、誰もリスクとらなくなっちゃうよと。

 

その成れの果てがワクチンだと思うんです。

 

官僚が平時体制で、承認しても誰も責任を追及しないけど、もし副作用で事故が起こったら、薬害事件の時のように官僚が逮捕される。政治家は責任を取らない。だからこそ、官僚はなかなか承認しないし、ゼロリスクを求めたがる。結果としてなかなかワクチンの承認は前に進まなかった、ということです。

 

新型コロナ: 必然だったワクチン敗戦 不作為30年、民のはしご外す: 日本経済新聞

 


ジャーナリストの佐々木俊尚さんがそうしたリスク回避社会について、こんなことを言ってメディアの責任に言及しています。


すぐ「後手後手だ。政府は何をやっているのだ」と言うのですが、後手後手になるのは当たり前です。先手を打ったら皆さん褒めるのかと。

 

安倍首相が昨年(2020年)2月の時点で、学校の休校を要請したら、皆さん怒っていたではないですか。

 

結果的にそれで悪かったかというと、それほど悪い施策ではなかったと思うのですよね。だから、結局先手を打てないし、リアルタイムでジャストな政策を打てるはずがないのだから、すべて後手後手になる。それを「後手後手だ」と言っておけば、何となく「言った気になってしまう」というのがメディアの問題です。


首長やリスクテイカーの人は、外のガヤよりも数十倍も考えて決断しているわけで、その決断に対するリスペクトがあった上で評価するなり批判するなりしないと、いつまで経っても足を引っ張るだけの社会になってしまうのではないかなと思いました。

 


もちろん、批判する人がいないと成り立たないことも一面の事実です。みんながみんな批判に責任を負うことで、言論空間が窮屈になりかねない。


ただ、大事なのは、代替可能性を考えることだと思います。


かつて55年体制では、自民党社会党がそれぞれ議席を分け合い、社会党衆院の3分の1の議席を持っていて、党是である改憲阻止を果たせる程度の議席数は持っており、これ以上党勢を拡大する意思もなく、また自民党に代わって政権を取る覚悟もないまま、野党として政治に向かっていました。


そうした中で、ついに1994年、社会党から初の首班が出た村山富市内閣ですが、社会党ははこれまで反対していた日米安全保障条約に賛成に転じ、違憲としていた自衛隊も合憲とするなど、今まで主張していた内容を180度転換させました。


これはやはり、社会党がリアリスティックに現実を捉えられていなかった限界を示していると思います。万年野党で満足していたのがいけなかった。

 


冒頭のリスクの話は、これと同じかなと思います。社会党は、ノーリスクで相手のことを批判していたに過ぎませんでした。自民党の揚げ足を取ってた分、一定の支持は得られたから、それで満足していた面もあった。だからいざ政権を取ったらボロが出てしまった。

 


思うに、自分が逆の立場だったらどうか?という代替可能性を持って考えることが、日本社会には重要なんじゃないでしょうか!

 


(僕も普段できてるか自信ないので、自分自身に肝に銘ずる意味でも、、、)

 

人事から戦争を読み解く。

日本が中国との戦争にはまり込んだ1930年代。

 


どうして戦争に入り込んだのかについては、数々の研究が明らかにしています。

 


統帥権の問題で政府が軍部に口を出せなかったこと?

関東軍が暴走したこと?

報道機関が煽ったこと?

また経済恐慌で日本が外部に敵を求めたこと?

 


さまざまな見方がある中で、「陸軍の人事」の観点から、戦争を解き明かしたのが、この本です。

※この本はおすすめとかではなく、マジで買う必要はないコアな本です。笑

こういうのが好きな方は是非。笑

 

 

 

たまたま過去に買っていて、積読されていたものを、たまたま手に取ってみたらめちゃ面白かった。

 


この本によれば、日中戦争の泥沼化は、陸軍の人事の観点からも説明がいくようです。

 


陸軍には日露戦争以来、陸士18期・19期問題がありました。

 


日露戦争中と言うことで大量採用が行われた結果、明治37年、38年(1904年、1905年)に入校した陸軍士官学校の卒業生は、前後の期の3〜4倍に膨れ上がり、1000人近い卒業生を抱えていました。

 


補足すると、陸軍士官学校は幹部となる将校の候補生を輩出する教育機関で、幹部になるためにはここを卒業する必要がありました。逆に言えば、ここを卒業したら幹部への道がほぼ約束される、そんな学校でした。

 


平時では、陸士を卒業したら各師団に配属され、中隊長からキャリアをスタートします。日露戦争当時、各師団には48中隊がありました。


仮に日露戦争後に出された帝国国防方針に掲げられた「平時25師団、戦時50師団」が達成されると、25×48で1200中隊、戦時には2400中隊を抱えていることになり、18.19期の卒業生全員を中隊長として迎えられる計算になります。

 


ただ、大隊長、連隊長ましてや師団長となると、ポストは限られるわけで、より選抜されることになってしまうため、人事上安定させるには、充分なポストが必要になります。

 


さて、そんな人事上に希望を満たす帝国国防方針は、実現されたのでしょうか。

 


 


実際は、大正14年(1925年)の軍備整理(宇垣軍縮と呼ばれる)によって、平時17個師団体制となりました。


大正5〜7年(1916年〜1918年)に中隊長ポストはなんとか終えた18・19期生に取ってみれば、その先の大隊長・連隊長・師団長ポストはどうなるのか?と心配だったに違いありません。このまま上に上がれるのか?という不安です。


そんな不安の中、1932年に二・二六事件が起きます。

 

陸軍将校による事実上のクーデター未遂で、この背景には、前述した通り、ポスト上の将来への不安があったとも言われています。

 

この事件の結果、上位部隊の指揮官らが一斉に予備役(現役ラインから外れる左遷)に入り、本来現役バリバリで活躍する人も、部下の不手際で予備役に入ることを余儀なくされます。やっとこさ昇進して次は我こそ、というときに予備役、とは、悔しかったことでしょう。

 


陸軍内で不安が増大し、爆発しかけている最中に起きたのが、1937年、盧溝橋事件に伴う支那事変(日中戦争)でした。

 


体制は戦時体制となって部隊の規模は拡大、予備役に入った幹部陣も勇みだって出陣していくことになった結果、どんどん収拾がつかなくなってしまったわけです。

 


そんな中、言葉は悪いですが、仮に戦争が収拾ついてしまい、部隊規模を平時に戻すとなると、ポストを減らさなければならず、あぶれる人が出てきてしまいます。

 


そしてその当時は部隊が増大しすぎて、階級のインフレも起きたようで、どんどん昇進が進んでいきます。

 

終戦して部隊規模を縮小するとなると、そうした階級面でも降格の必要が"出てきてしまう"ことから、現場の将校たちにとっても、戦争が続いてくれることは望ましいことだったんです。

 


そうした背景もあって、支那事変がどんどん拡大していったことは、"合理的に"説明がつきそうです。

 

 

 

人事の観点が全てではないにせよ、人事の観点から軍を見るとめちゃくちゃ面白いなと思いました。

 


この本に併せて書いてあることとして、敗戦の原因として、軍部の人事が戦時中もなお平時の人事のままであったことが挙げられます。

 


平時の軍の人事では、戦闘がないため士官学校などでの成績や年次が昇進の参考とされますが、戦時はそうしたものよりも、勝てる人を上に立たせるしかありません。

 


日本はそれができませんでした。戦時でも平時の秩序を守ろうとしてしまった。

 

この本で挙げられているのは、海軍の話にはなりますが、海軍で大将に昇進させる人を選ぶ際、緒戦で敗退を重ねた井上成美が大将になり、戦闘で活躍した小沢治三郎は選ばれなかったことです。海軍士官学校の席次を示すハンモックナンバーは、井上は2番、小沢は45番でした。そのほかにもさまざまな事情はあるかもしれませんが、席次が重視されたことは想像がつきます。。。そんな平時の人事が戦時中にも行われていたようです。


(加えて、この本で書かれていることから推察するに、陸軍では、戦闘をする現場よりも中央が重視されており、成績の良い人が中央の参謀本部陸軍省に配属され、彼らが実権を握って官僚統治になっていたことも、事実上"軍"として機能していなかったことを示しているのではないかとも思います。彼らは敵と戦う軍ではなく、あくまで"官僚"になっていたんだと思います。)

 


※事実、陸軍軍人の東條英機元首相は、中隊長や連隊長、参謀長を経験しているものの、ほとんどのキャリアを陸軍省参謀本部といった職場で過ごしており、想像するような"軍人"ではないことが伺えます。

 

 

 

なるほど、人事が世の中を動かす肝とも言われますが、かなり奥深く、めちゃくちゃ面白いなと思った本でした。意外な出会いってありますね。

映画「杉原千畝」

先日、映画「杉原千畝」を見ました。

 

 


第二次大戦中の日本の外交官(駐リトアニア領事代理)、杉原千畝の話です。ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人が国外に脱出するためのビザを発給したことで有名な杉原千畝です。

 


ドイツ軍から逃れてきたユダヤ人を救うためのビザを発給しようとする杉原に対して、外務省はドイツとの関係性もあって認めようとしません。

 


そこで杉原はリトアニアから日本に行けるためのビザを独自に発給します。

 


その発給に至る過程も、杉原自身が周囲のポーランド人(独ソに占領され、自らの故郷を失っていた)の故郷に対する思いに感化され、自らの職を賭す覚悟を持ってユダヤ人と向き合うことを決めた葛藤のシーンは、深く考えさせられました。

 


自分が同じような大組織の一員で同じ立場だったらどうだっただろうか、ということです。

 


いくら相手の命を救うとはいえ、ある種国益に反することをやろうとしているわけで、クビにもなりかねませんし、自分の家族や自分の周囲にも迷惑をかけてしまいます。

 

それでもなお、そこに抗えたのは、杉原自身の信念が強くあったからじゃないでしょうか。目の前にいるユダヤ人と相対している中で、組織として、国としてという視点ではなく、ひとりの人間として何をすべきか?を考えたこと。


組織人としての振る舞いがいかに難しいかを痛感しました。組織人として自分を見失わないためには、強い自分の意思や信念が重要なんだと改めて思いました。

 


さて、この映画の何よりの肝は、単に杉原がユダヤ人を救う話ではなく、あくまで外交官(諜報を主に担当していたようですが)としての使命を果たしつつ、ユダヤ人を救ったのは杉原1人じゃないことが描かれていることです。

 


単にビザを発給しただけ、ではこども漫画になってしまいます。

 

重要なのはここからです。杉原の発給したビザを持ったユダヤ人が、日本の目の前のソ連ウラジオストクに殺到します。


そこで、問題となるのは、ユダヤ人を日本に受け入れるのかどうか?ということでした。


ウラジオストクで日本への船の乗船を拒否することを外務省から命じられた領事の根井三郎が、その命令を拒否し、独断で乗船させることにしたのです。また、ビザを持たないものには独自ビザまで発給しました。

 

https://www.sankei.com/article/20200923-KXDU4LBSUBJCPOSJIQD6BD65C4/


杉原と根井は、日露協会学校で2学年下(杉原が2個上)で学んだ関係のようですが、杉原が職を賭してまで繋いだ思いを、仲間である根井が繋ぐ。

 


そんな思いの伝承が感じられ、めちゃくちゃ感動しました。久しぶりに映画で泣けました。

 


知ってることばかりだろう、と軽い気持ちで身始めた映画でしたが、組織での振る舞いの難しさと、思いをつなげることの素敵さに、心を動かされた映画でした。