三男日記

愛知県蒲郡市出身です。広告会社から転職し、財務省に奉職中。言わずもがなですが、いずれも個人の見解です。

「政治決断」を尊重する

消費減税の実施をめぐって、来年4月から、食料品に係る消費税が8%から1%に引き下げられることが閣議決定された。

 

自民党内の議論では減税の実施に否定的な意見も目立つ中、高市総理・総裁のリーダーシップで事実上の「政治決断」が行われた。

 

今回は、その「政治決断」について考えたい。

 

政治決断は、意見が二分されるようなテーマにおいてしばしばなされる。

 

パッと思いつくのは、「郵政民営化」や「消費税の導入」といった内政テーマ、また、「TPPへの加盟交渉」や「日韓慰安婦合意」といった外政テーマもある。

 

そういった巨大な、まさに国論を二分する政策テーマだけではなく、新しく制度を導入するようなもの、例えば、「ふるさと納税の導入」や「デジタル庁の設置」も政治決断に該当するのかもしれない。

 

 

では、「政治決断」とは何を指すのか。

 

 

国家公務員の仕事をしていると、「これは政務に上げなければならない」という案件にしばしば遭遇する。

 

それが指す真意は、「役人だけでは決めきれない」にある(と思っている)。

 

 

「役人だけに決めきれない」ということを理解する前提として、「政治家と役人の間に存在する厳然たる違い」を認識しておく必要がある。

 

 

「身分が何によって裏づけられているか?」ということだ。

 

「政治家」は、選挙を経て、それぞれの選挙区の選挙民の民意を代表して、永田町に議席を有し、発言している。その裏には、何万の国民の声があり、「この人に世の中を託したい」と広範な委任を受けている。

 

一方、「役人」は違う。選挙によって国民から直接権限を付託された存在ではなく、採用され、任命され、それぞれの持ち場で行政を担う存在だ。どんな階級の誰であろうと、任命権者は、(基本的には)政治家たる国務大臣である。

 

その点、政府・役所としての決定権者は「国務大臣」であり、国務大臣を任命する「内閣総理大臣」が最終決定権者となる。

※内閣人事局による幹部人事一元化制度は、この点においては論理的に正しい制度であると思う。

 

とはいえ、政府全ての意思決定を総理や大臣まであげていたら何も進まないから、役人は役人として政務に諮らずに行う日々の意思決定を行いつつも、政治的責任を生じうる決定については、決定権を有する政務の判断を仰ぐことになっている。

 

政治的責任を生じうるかどうかの線引きについて、

誤解を恐れずにざっくりと言えば、

・「どの方向に進むか」を政治が決め、
・「どうすればその方向に進めるか」を行政が考え、実行する

というイメージに近いかと思う。

 

例えば、直近で言えば、菅総理が政治判断した「黒い雨訴訟」の上告断念はまさにその例だ。役所としては、過去にも上告をしてきた例を踏まえ、「過去もこうしてましたから」という考え方のもと、政府として上告をすることを考えるが、その前例を棄却して、政府として新たな判断をするというものだ。

(参考)

www.yomiuri.co.jp

 

つまり、政治決断とは、「民主的正統性を持つ者が、その決定の責任を引き受けて新たに方向性を示すこと」といえる。

 

政治家がそうしたことをすることができる「権力」の源泉は、いうまでもなく、「民意」だ。

 

国民から権力の付託を受けた国会議員から選ばれた「総理大臣」及び「内閣」こそが政府を動かす権利を有するという、まさに間接民主主義そのものである。

 

警察庁長官から衆議院議員、内閣官房長官になった後藤田正晴氏は、著書「政と官」にて、政治家と役人の違いについてこのように喝破している。

 

「政策を決めるのは、内閣である。」

「この決定を行政機関が実行する。これが、日本国憲法が想定している役人の位置づけである。」

www.kodansha.co.jp

 

もちろん、「政治決断」であれば何でも正当化される、ということではないと思う。役人は、政治家がやろうとしている政策のメリットやデメリット、またその実現可能性についてフラットに整理して政治家に示すという重要な役割があり、政治決断の前には、きちんと議論が行われることが必要だ。

 

しかし、そうした材料が出尽くしてもなお、最後に残る「どちらを決断するか」という問いがある。その最後の一線を越える権限を持つのは、「役人」ではなく「政治家」ということになる。

 

後藤田正晴氏も、このように言っている。

「政策を決めるのは、あくまで政治家である。国民が政策作りを委託したのは役人ではなく政治家である。それが民主主義の基本だ。」

と。

 

 

今回の消費税減税も、参院選及び衆院選という2回の選挙を経て訴えられた民意を受け、自民党・維新の会連立政権の長たる高市総理において政治決断がなされたものだと理解している。

 

もちろん、財政規律を損なうだとか、効果が薄いだとか、批判はあるし、それが日本経済に悪手になりうるのかもしれない。社会保障の財源に穴を空けうるものなのかもしれない。

 

それでも、総理が決断した「消費税の減税」は、それを望む切実な国民の声を、政府の長として、与党の長として真摯に受け止めた結果として決断されたものであり、その意味で、尊重されるべきものではないかと考える。

 

 

このように考えたとき、消費減税をめぐるこの記事には、違和感を覚えた。

・財務官僚は「消費税減税ではなく、低中所得者に絞った『給付付き税額控除』に着地させたい。それが高市政権の長期安定にもつながる」と強い矜持を示し、なんとか総理を説得したいと話していた。

・しかし、減税は「国民との約束だ」と位置付ける高市総理の決意は揺るがなかった。減税の方針が決まった瞬間に、先の官僚は「本当に決まってしまった。何のために今までやってきたのか」と力なく肩を落とした。それは財務省にとって、消費税がいわば「聖域」だったからでもある。

・「物価高に対する税制上の手当てが遅れたことが、すべての引き金だった」と財務官僚は反省気味に顧みる。

 

newsdig.tbs.co.jp

 

 

 

問題は、消費減税に反対している、ということではない。役人が専門的知見から「この政策にはこういう問題がある」と政治家に意見することは、前述のとおり必要だ。

 

違和感を覚えたのは、政治決断を役所側の「勝ち負け」として捉えているかのように見えることだ。

  

コメントしている財務官僚の正確な意図がよくわからないが、ストレートに受け取るとすれば、その発言には、どう国民の現状に合わせていくか、という視点が抜けているように思え、その点、後藤田氏はこうも言っている。

「役人の側の問題としては、思い上がりの意識がある。」

「彼らは、自分たちは国益中心で物事を考えていると信じ込んでいる。その国益とは、非常に主観的なものである。」

「彼らは大衆の批判にさらされていない。役所の窓からしか物事を見ていない。このため、国益という名の省益に流れてしまう欠点を持っている。」

 

と。

 

前述の財務官僚の発言は、後藤田氏が指摘した官僚の陥りうる罠と重なってしまっているように思える。

 

もしそうであるなら、「国民生活のために何をするか」という本来の視点から乖離してしまっているように思え、それを正したのが政治家たる高市総理、とみることはできないだろうか。

 

 

また、時々、「役人(霞が関)と比べて政治家(永田町)を軽んじる言説」を目の当たりにするが、同様の文脈で、私は違和感を覚えている。

 

政治家は選挙区をくまなく歩き、有権者の要望を聞き、ときには厳しい批判を直接受けながら選挙という厳しい審判をくぐり抜けて議席を有している人たちだ。選挙に落ちれば、ただの人になってしまう刹那的な性質も併せ持っている。

 

少なくとも、その過酷なプロセスは役人には経験しえないし、そのプロセスを潜り抜けたということが、政治家の凄さであり、リスペクトに値する。その政治家がたとえどんなに突飛な発言をしようとも、その人が選挙というプロセスを経て、一定の民意を背負って議席にいることは忘れてはならない。

 

一方でもちろん、「役人」にも「専門性」という役人の強みがある。

 

とある役人の先輩の言葉に、

「役所の仕事は、理想を政策に変えて売る仕事」

という言葉がある。

 

私はその言葉は、役人の仕事を言いえているように思う。

 

役人の仕事は、民意の付託を得た政治家の指示を受け、いかに良い政策という形にして世の中を動かしていくか、その一点にあるのだと思う。

 

その意味で、政治家が世の中を動かす「決断」自体は、それが民意の裏打ちを得ているなら尚更、行政が組織としての従来の判断に固執するべきものではなく、政府全体、また世の中全体として、一定の尊重がなされるべきであると思う。

 

 

もちろん、「政治決断」は賛否両論あると思う。

 

メディアも役人も、問題があると思えば声を上げればよい。

 

ただし、最後にその決断の結果責任を負うのは政治家であり、その政治家を最終的に評価するのは選挙区の有権者だ。

 

正しいかどうか分からないことを、責任を引き受けて決める。それこそが、数万人の民意の負託を受けた政治家にしかできない仕事だから、なされた「政治決断」は、尊重すべきだと思う。

 

その政治家は、我々がきちんと選んで、託した人たちなのだから。

 

百貨店という文化のインフラ

仕事の視察で、とある地方都市(県庁所在地)を訪問する機会がありました。

 

視察の中では、地場百貨店の社長に話を伺う機会をいただき、社長との質疑応答の中で社長からは、

「地域社会にとって、百貨店は“文化”を感じられる唯一無二の場所だ。百貨店がなくなれば、身近に文化を体感できる場所がなくなってしまう。なんとしても守らなければならない」

という言葉がありました。

 

最初にその話を聞いた時、その場では正直よくわかりませんでした。

 

百貨店、特に地方都市における百貨店は難しい状況にあり、経営がうまくいっていないところが多いと聞いています。僕の地元の豊橋市の「ほの国百貨店」も閉店してしまいました。

 参考:「閉店は寂しい?」

gm-fk20.hatenablog.com

 

百貨店自体の求心力が落ち、生活者からの支持を得られなくなりつつある中で、「百貨店が文化のインフラ」というのは百貨店側から出る言葉ではないかと思いました。「インフラ」であるからといっても使われないことにはインフラといえないのではないかと。

 

 

しかし、時間が経ってからようやく、社長の言葉の意味が少し理解できた気がしました。

 

近所のワインショップでお土産としてワインを購入しようとした際、店主と、「こういうワインが欲しい」「予算はこれくらい」とやり取りしていてふと思いました。

 

自分は、ワインに興味があるので、どこに行ったらいいワインが買えるのか、なんとなくわかります。ですが、それ以外のジャンルの商品、例えば、アクセサリーなどのブランド品について、誰かにいいものをプレゼントしようとしても、そのジャンルの知識が薄いうえ、「どの店に行けばそれらが手に入るのか?」ということがよくわかりません。

 

しかも、さらに難しいのは、仮にその道の専門店を見つけられたとしても、自分の好みや欲しいものを伝えるには、そのジャンルについて最低限の「言葉」があった方がいいかなと思いますし、何より、そもそも良い専門店がどこにあるのかを知ること自体に、ある程度の知識が必要になってきます。

 

 

でも、百貨店は、少し違う。

 

百貨店は、どんなジャンルの商品でも一定のクオリティのモノを幅広く扱っていて、ある程度のジャンルはカバーされています。自分がそのジャンルに疎い「ビギナー」であったとしても、店員さんが適切な売り場に親切に導いてくれ、目利きによって選ばれた“いい商品”を手に入れることができます。

 

もちろん、「扱う商品の幅広さ」という点では、インターネットは、何でも揃っていると言えるかもしれません。しかし、「何でも揃っていること」と「良いものを選べること」は別です。有象無象の情報を確度高く目利きをし、適切なサイトにアクセスし、適切な商品を手に入れることは、そのジャンルのビギナーにとっては至難の業ではないかと思います。

 

その点、百貨店は、そのジャンルのプロたちが目利きをした多種多様な“良い商品”が集められ、誰もが気軽に出入りでき、目利きのスタッフの説明を聞きながら、“いい商品”を持って帰ることができます。

 

 

仮に「文化」を、美術や映画といったいわゆる芸術作品にとどまらない、服やアクセサリー、酒や家具も含めた「人が長い時間をかけて磨いてきた物や営み」と広く捉えるのであれば、百貨店は、そうした「文化」を、老若男女や玄人素人も問わず、ありとあらゆる層に対して体験させてくれる存在ということになります。

 

百貨店を味わうにはちょっとだけお金は必要だけれど、お金のほかに、誰かの紹介が必要なわけでもない。買うのに特別な知識も要らない。気軽にふらっと遊びに行って、自分がそれまで知らなかった「ちょっと良いもの」に出会うことができる。

 

そんな場所が百貨店なのだと思います。

 

そんな「百貨店」が街にあるということは、その街に「文化への入口」が開かれているということなのかもしれません。

 

百貨店が提供している価値は、「百貨」に表現されるような「商品」にとどまらない、「上質なものへのアクセス」そのものであり、「いいものを手に入れるプロセスそのものを大衆のものにしたこと」が価値である、ともいえるのかもしれません。

 

東京なら、百貨店が一つなくなっても、代わりはいくらでもあります。専門店もあるし、別の百貨店もある。でも、地方都市ではそうではありません。百貨店がなくなれば、その街から「ちょっと良いもの」に出会うための入口そのものがなくなってしまうことになります。

 

そう考えたとき、社長が「百貨店は地域における文化のインフラであり、守らなければならない」という意味が、以前より少し分かるようになりました。

 

 

もちろん、「文化のインフラだから」というだけで、経営が成り立つわけではありません。使われなければインフラとは言えない、という僕の違和感も、間違ってはいないのとは思いつつも、それでも、もし百貨店がなくなるとすれば、僕たちが失うものは、単に「買い物をする場所」だけではないのではないか。。。

 

そんな風に考えるようになりました。

 

ということを書いていたら、百貨店に行きたくなったので、今週、百貨店に行ってみようと思います。

「左遷報道」への違和感

「左遷」とは、「低い地位・官職におとすこと」を指すらしい。

kotobank.jp

「遷」は、場所や地位を移すこと。そして、古代中国では「右」を尊び、「左」を卑しむ考え方があったことから、低い地位へ移すことを「左遷」と呼ぶようになったという。

 

 

今夏、ある省庁人事が注目されている。

 

財務省主計局の次長を務めていた一松旬氏が、「東京税関長」に異動するというものだ。

www.asahi.com

 

朝日新聞の記事によれば、

「将来の次官候補と目される有力官僚で、東京税関長に転出するのは異例」

とのこと。

 

さらに、

「一松氏は強い財政再建論者で、政治家に直言することで知られている。官邸幹部は『(一松氏は)初めての挫折を味わっているんじゃないか』」

とも報じられ、「左遷」含みの人事として注目されている。

 

集英社オンラインは、露骨に「左遷」と記事を出している。

shueisha.online

 

こうした「左遷」をめぐる記事は、昔からよくある。

 

役人の世界でいえば、かつては、菅官房長官が進めていた「ふるさと納税」に反対した総務省の局長が左遷されたと話題になったこともあった。

dot.asahi.com

 

 

こういう記事を見るたび、なんとなく寂しく思うのは、自分だけだろうか。

 

 

もちろん、組織には人事評価がある。

 

本人にとって不本意な異動もあれば、実際に降格の意味を持つ人事もある。「出世コース」と呼ばれるものもあるのかもしれない。(それの是非はさておき)

 

だから、「この人事にはどういう意味があるのか」を報じること自体には、意味があるのかもしれない。特に、国家公務員の人事については、政権の方針のメッセージでもあるため、人事に込められた意味を明らかにする意義は大きいのかもしれない。

 

それは理解しつつも、それでも、そうした人事を「左遷」と決めつけて報じることには、違和感を覚えてしまう。

 

「左遷された」と言われた先のポストや部署にも、当然、そこで働いている人がいる。過去にそこで働いていた人もいる。

 

その人たちは、「あそこに行くのは左遷だ」と大々的に報じられるのを、どういう気持ちで見るのか、もう少し思いを馳せるべきではないだろうか。

 

仮に、ある人にとってその異動が事実上の降格だったとしても、あるいは、それまで歩んできた出世コースから外れる人事だったとしても、それはあくまで「その人にとって」の話である。

 

異動先の部署自体や、仕事そのものの価値が低いわけではない。

 

それぞれのポストには、それぞれの役割がある。
それぞれの職場には、そこで目の前の仕事をきちんとこなしている人たちがいる。

 

にもかかわらず、「左遷」と大々的に騒ぎ立てることは、そこで働いている人や、そこで働いてきた人へのリスペクトを欠いてはいないだろうか。

 

もっと言えば、「仕事」というものに、あまりにも簡単に上下をつけすぎているようにも思う。

「この仕事は重要な仕事」
「これはそれほど重要ではない仕事」

「このポストは期待されている人が行くところ」
「このポストは出世コースから外れた人が行くところ」

 

もちろん、組織の中にそうした評価や意味づけが存在すること自体は、おそらく避けられないし、どの組織でもあるのだと思う。

 

でも、それを組織の外にいる人が、
・ある職場やポストを「左遷先」と名付けて意味づける必要が、どこまであるのだろうか。
・その職場で働く人の気持ちを無視してまで大々的に騒ぐ必要が、どこまであるのだろうか。

 

どんな職場にも、どんな仕事にも、その仕事を必要としている人がいる。
そこで働く人がいる。

 

もちろん、その人事を受けた当事者が「左遷された」と感じることはあるかもしれない。

 

だけど、その仕事を「左遷先」と呼び、その仕事の価値まで低いものであるかのように語る権利は、当の本人以外にはないのではないか。ましてや、どんな職場でも、仕事でも、(サラリーマンを続ける限りは、)一生懸命やるしかないのであり、本人はしっかりやるのだと思う。

 

そうした意味で、外の人がそれを「左遷」と言い切ってしまうこと自体、人の人事を評しているようでいて、その人がこれから働く場所そのものを評していて、(その人にとっては失礼ではないかもしれないが、)その周囲で一生懸命働いている人に対する礼を失しているのではないかと思っている。

 

だから僕は、こういった言葉を見るたびに、少し寂しい気持ちになる。

 

 

「左遷」と決めつけて外野が騒ぐのは、やめません??

 

 

皇室典範改正に思う【その2(三男の意見)】

【その1】として皇室典範の改正内容を見てきた。


続いては【その2】として、今回の皇室典範改正について個人的な意見を整理していきたい。

 

①旧皇族男子を皇族の養子にすることができる

②女性皇族は婚姻後も皇族にとどまり続けることを可能にする

という改正内容について、いずれも基本的な考え方には賛同したいが、個人的には反対の立場だ。

 

いずれも、「皇族数を確保する」という1点においては重要な策であり、それらしか策はないように思いつつ、しかしながら一方で、自分が問題だと思っているのは、①②いずれも根本的な解決策になっていないのではないかということだ。

 

まずそれぞれの案の問題点を見ていくと、

①(旧皇族男子養子案)については、

・「平民」の人を「皇族」にすることが果たして望ましいのか

・またそれが、国民の理解を得ることができるのか

という問題があると思っている。

 

読売新聞(7月18日付)によれば、旧皇族である11宮家には、30歳以下の未婚の男系男子が賀陽(かや)、久邇(くに)、東久邇(ひがしくに)、竹田の4家に少なくとも11人いて、養子の対象となる15歳以上の男子は「6人」いるとのこと。

 

彼らはいずれも一般家として育ち、「皇族」になるべくして育てられたわけではない中で、彼らが”法律に基づいて「皇族」となる”ことに国民全体の理解が得られるのか、少なくとも自分は疑問に思う。

 

もちろん、本人は、小さいころから自分は皇族の子孫であるという漠然とした教えは受けていたり、さかのぼれば天皇家に繋がる血筋であることは自覚していたりするとは思うが、それでも、「皇族かどうか」という線引きにおいては、日本国憲法下における「平等性」や「公平性」の特殊な例外として、最初の時点から皇族に生まれ、「平民」とは別の存在として育てられるといったある種の「神聖性」が、(皇室ではない一般国民が皇室に敬意を持つにあたって)必要なのではないかと思う。

 

もちろん、今回の法改正では、最終的には皇室会議も通じ、養子を受け入れる側及び養子になる側の合意を経て、「皇族」になる人間が手続きとして選定されることになるが、過去、戦後に皇籍離脱した旧皇族の中には、離脱後キリスト教信仰に切り替えた朝香宮や、新興宗教を作ろうとしたり訴訟を起こした東久邇宮がいるなど、現皇族とはあまりに属性や考え方、振る舞いが異なっている人が混ざっており、「血筋」が通じているというだけで彼らの子孫を「皇族」とみなしたところで、その人を国民の統合の象徴として、国民の理解が得られるのかどうか。

weekly-economist.mainichi.jp

 

その点、小泉内閣で(悠仁親王殿下が生まれる前に)取りまとめられた「皇室典範に関する有識者会議」の報告書(平成17年11月24日)においては、下記のように述べたうえで、旧皇族の皇籍復帰を否定している。

p.7

• 旧皇族は、既に60年近く一般国民として過ごしており、また、今上天皇との共通の祖先は約600年前の室町時代までさかのぼる遠い血筋の方々であることを考えると、これらの方々を広く国民が皇族として受け入れることができるか懸念される。皇族として親しまれていることが過去のどの時代よりも重要な意味を持つ象徴天皇の制度の下では、このような方策につき国民の理解と支持を得ることは難しいと考えられる。

 p.8

• いったん皇族の身分を離れた者が再度皇族となったり、もともと皇族でなかった者が皇族になったりすることは、これまでの歴史の中で極めて異例なことであり、さらにそのような者が皇位に即いたのは平安時代の二例しかない(この二例は、短期間の皇籍離脱であり、また、天皇の近親者(皇子)であった点などで、いわゆる旧皇族の事例とは異なる。)。これは、皇族と国民の身分を厳格に峻別することにより、皇族の身分等をめぐる各種の混乱が生じることを避けるという実質的な意味を持つ伝統であり、この点には現在でも十分な配慮が必要である。

皇室典範に関する有識者会議報告書 | NDLサーチ | 国立国会図書館

 

そして②(女性皇族が結婚後もとどまる案)については、

皇族数確保という観点では必要な策ではあるが、その配偶者や子は皇族の身分が与えられないため、現実的とは思えない。

 

1つの家の中で「妻は皇族、夫は一般人。子も一般人」という家庭が成り立つのか、理解に苦しむ。

※また、極論ではあるが、夫の政治活動も可能になってしまう。

 

もちろん、引き続き女性皇族に皇室の公務を担っていただくことは不可欠であるとは思うが、その配偶者と子には皇族身分を付与しない前提のままであるのであれば、女性皇族の家族のことを考えていない、あまりに弥縫策にすぎる案ではないかと感じる。

 

読売新聞(7月18日付)の社説では、「女性皇族は公務を分担しさえすればよいと言うに等しい扱いであり、敬意に欠けている」と手厳しく批判している。

 

 

そうした中で、①②に対して違和感を持った根本的な問題意識としては、いずれの議論も、出発点が【女性天皇・女系天皇の可能性を否定するところであること】であり、それによって、(本質的な論点を避けようとするばかりに、)いずれの選択肢も現実性を欠いたものになっていると言わざるを得ない。

※・皇位の「男系継承」を重視するばかりに、遠い血筋の男系男子を復帰させる案になっているし、

・女系天皇の選択肢を浮上させないよう、女性皇族の配偶者と子は皇族にならないようにされている。

 

自分は、女性天皇や女系天皇の議論は排除すべきではなく、これからの新しい皇室の伝統として認めていくべきではないかと考えている。

 

・明治以降は男系男子のみ、

・かつ戦後は嫡出に限る(側室は認めない)(※)

・戦後の旧宮家の大規模な皇籍離脱

を行えば、皇位継承を「男系嫡出男子に限る」ことが、皇位継承を確実にしていく観点ではどれだけ非現実的であるか、論を俟たないではないか。

※その点、参政党が主張する、「側室を持てるようにする」は、非現実的ではあるが、一貫している。(ただし、一般国民が一夫一妻制である中、皇室だけが側室を持てるとしたところで、国民統合の象徴として理解はされないように思う。)

 

また、父系が家を相続するという伝統は、家父長制の男子優位の伝統の中で築き上げられてきた考え方であり、男女平等で夫婦別姓も一般的な議論となりつつある現代においては、いかに天皇家が現実から乖離した神聖な存在であろうとも、「(万世一系の)男系継承の伝統」それ自体が、国民一般の感覚からかけ離れ続けて男系継承を尊重することの正統性を裏付けるものにはなりえないと考える。

平成17年11月24日「皇室典範に関する有識者会議」報告書 参考資料p.37

 

仮に「血筋」を重視するのであれば、今の陛下と36-38親等も離れているとされる旧皇族ではなく、常々「皇族」としてさまざまな公務をこなし、国民に寄り添ってくださっている女性皇族をまずは大切に思い、皇位継承をしうる途を探っていくことの方が、国民一般の広い理解は得られるように思う。

※もちろん、悠仁親王殿下がいらっしゃる以上、皇位継承順位については、属人的な人物の比較、例えば「悠仁さまより愛子さまの方がいいから、まずは愛子さまで!」といった議論で決まらぬよう、例えば現時点での継承順位を尊重した形での継承を行う等、一定の配慮をする必要があることは言うまでもない。

 

読売新聞の世論調査(2025年秋)では、女性天皇への賛成は約7割に達していた。

www.yomiuri.co.jp

 

 

日本国憲法において、天皇が「国民の総意」に基づく「統合の象徴」である中で、伝統は時代と共に変わりゆくことが必要ではないか。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 

実際、上皇后陛下は、皇太子妃としては初の民間出身の女性であったし、子どもを育てる際も、伝統的な里子制度で親子離れ離れで暮らすのではなく、ご自身の手で今上陛下を育てられるようにするなど、国民に理解される象徴天皇制へアップデートなされた。

 

そうしたアップデートは、伝統に裏打ちされた「象徴天皇制」への国民の理解と共感を時代の変化をとらまえる形で強く、強固にしたのではないか。

 

もちろん、伝統の重視は忘れてはならないし、象徴天皇制は伝統に裏打ちされた神聖性に基づくものであることは言うまでもない。

 

それでも、天皇陛下が6月の会見でおっしゃったことに表れているが、国民は単に伝統の墨守に基づいて男系継承だから天皇陛下に敬意を持っているのではなく、「国民に寄り添い続けてくださる天皇陛下の振る舞いやあり方そのもの」に敬意をもっているのであり、何がなんでも過去の伝統が続きさえすれば天皇陛下への敬意が生まれる、という単純なものではないと思う。

【令和8年6月11日オランダ及びベルギー訪問に際し】

 国際親善は皇室の重要な役割の一つであり、外国との相互理解や友好関係を深める上で、大切な意義を有していると思っています。昨年、愛子がラオスを訪問し、多くの方々と交流の機会を得られたことは、本人にとっても大変貴重な経験になったのではないかと思います。愛子を含む若い世代の皇族それぞれが、様々な経験を重ねながら、自らの務めについて理解を深めていくことを願っています。

 皇室の活動は、このような国際親善のほかにも、地方への訪問や被災地のお見舞いなどを通して、国民の皆さんに寄り添い、あるいは多くの国民の皆さんと交流することを始め、多岐にわたっております。こうした皇室の活動を、将来にわたり安定的に続けていくための皇族数の確保の在り方については、現在、議論されているものと承知しています。制度に関わる事項については、私から言及することは控えたいと思いますが、皇室の在り方や活動の基本は、国民の幸福を常に願い、国民と苦楽を共にすることだと考えており、こうした皇族数の確保の在り方についての議論においても、国民の皆さんの理解が得られるものとなることを望んでおります。

 これからも、若い世代も含めた皇室の一人一人が、それぞれの立場で務めを果たしながら、国民に寄り添い、また国際社会との友好親善にも努めていくことが大切であると考えています。

www.kunaicho.go.jp

 

※上記の発言について、陛下の真意がどこにあるかについては答えもないし、推測論に過ぎず、水掛け論になるので、そこを論じても仕方がない。

 

その点、今回の改正においては、一般感覚と異なる議論がなされていたのではないかと感じ、とても残念に思っている。

 

自らの内閣で皇族確保策の議論に向き合い、笠原英彦氏からは、「風貌に似合わず、情熱の政治家である」と評された野田佳彦氏は、女性宮家創設論者であるが、今回の改正成立に際して、このように述べている。

いつの日か同志を増やした上で、本格的な典範改正の議員立法を提出したい。

www.fnn.jp

 

国論を二分するテーマではあるし、喫緊の課題であることは重々承知の上でだが、皇室の在り方をめぐって、議論があまりに二分される状態は望ましくないように思う。

 

今後も議論が続いていくことを期待する。

「休日」は、誰かの「平日」でできている。

社会人になって以来、私は基本的に月曜から金曜まで働き、土日に休む生活をしてきた。そのため、平日の昼間に街へ繰り出すことは、ほとんどなかった。

 

平日にどこかへ行けるとしても、昼休みか、始業前、終業後の限られた時間だけだ。

 

実際、銀行の窓口には昼休みになると長い列ができる。仕事を終えてから行こうとしても、警察署の窓口は夕方には閉まり、銀行の窓口も多くは午後3時まで。引っ越しに伴う住所変更など、役所で行う手続きも、土日には済ませにくいものが多いため、ちゃんと使おうとすると、結局、平日に有給休暇を取り、窓口へ出向かなければならない。

 

一方で、カフェや飲食店、美容院などは違う。

 

仕事を終えた平日の夜や、土日の休みに、私たちはそれらのサービスを自由に利用することができる。テーマパークや映画館、商業施設もそうである。

 

考えてみれば、土日にみんなが一斉に休んでしまったら、私たちの休日はずいぶん不便なものになる。

 

最近は、正月に休業する店も増えてきた。働く人がきちんと休めるという意味で、私はその流れに賛成である。

 

ただ、現実問題として多くの店が同時に一斉に休むと、買い物をする場所や食事をする場所がなくなり、困ってしまう。実際、正月休みの店が増えてきた最近の正月、ちょっと暇だな、と感じませんか?笑

 

「全員が休む社会」とは、そういうことなのだと思う。

 

つまり、普段、私たちが土日を休日として楽しめるのは、その土日を誰かが「平日」として働いてくれているからである。

 

かつて、缶コーヒーのジョージアに、

「世界は誰かの仕事でできている。」

という広告コピーがあった。

 

私たちが使う商品も、街の設備も、日々受けているサービスも、すべて誰かの仕事によって支えられている。その事実に光を当て、働く一人ひとりを励ますような広告だった。

youtu.be

 

それと同じように、

「休日は、誰かの平日でできている。」

のだと思う。

 

自分が休日を楽しめることも、(それが土日であるかどうかにかかわらず、)知らない誰かの仕事に支えられ、不自由なく、休日を楽しむことができている。

 

 

ところで、NHK放送文化研究所の「国民生活時間調査」によると、平日に仕事をしている人の割合は国民全体の52.1%だった。

www.nhk.or.jp

 

逆に言えば、平日に仕事をしていない人が約5割いるということなので、ということはざっくり週休2日制を前提に考えれば、その分、土日に仕事をしている人であるとも考えられ、(あくまで参考値としてだが、)案外、「平日」「休日」が分散していることがわかる。

※もちろん、この数字は10歳以上の「国民全体」の数字であるため、子どもや高齢者、学生なども含まれている。また、「仕事をしている人」の中にも、土日勤務や夜勤、シフト勤務など、さまざまな働き方をする人がいるため、留意が必要。

 

以前、美容師さんに平日の客層について聞いたことがある。平日にも意外と多くの利用者がいて、フリーランスの人や、サービス業などで平日に休みを取る人が来店するのだという。

 

不動産業界で働く知人も、土日は基本的に出勤し、代わりに平日に休みを取っていると話していた。

 

平日の昼間に営業している店も、利用者がほとんどいなければ商売として成り立たない。実際には、月曜から金曜まで働く人だけでなく、平日に休む人、短い時間だけ働く人、夜に働く人、場所や時間にとらわれず働く人がいる。

 

「平日」の概念は一様に見えて、実は多様な働き手の多様な時間の組み合わせによって、街は毎日動いているのだろう。

 

「平日」や「休日」は、カレンダーだけで捉えられるものではない。

 

ある人にとっての休日は、別の人にとっての平日である。

 

そして、それぞれの平日と休日が重なり合うことで、私たちの暮らしは成り立っているのだなと改めて実感した。

 

 

ただ、そのことを踏まえると、役所や警察署などの行政サービスには、もう少し改善の余地があるとも感じる。民間のサービスが利用者の生活時間に合わせて土日や夜間にも提供されている一方で、行政手続きの多くは、平日の昼間にフォーカスが当たりすぎているように思う。多様な働き方があることを前提に、行政サービスもまた、利用者の時間に寄り添うものへとアップデートされるべきと思う。

 

最後は単なる不満だが。(笑)

 

p.s.

土日に働いてくださる皆さまのおかげで、私は土日に買い物をしたり、飲みに行ったり、髪を切ったりすることができています。いつもありがとうございます!

皇室典範改正に思う【その1(改正内容)】

改正皇室典範が公布され、今年の10月から施行されることとなった。

 

大きな改正点は、以下2つで、

①旧皇族男子を皇族の養子にすることができる

②女性皇族は婚姻後も皇族にとどまり続けることを可能にする

というもの。

nippon.jp

 

 

「皇族数の確保」に主眼をおいた与野党合意に基づくものであったが、特に①について、養子の子の皇位継承権を認める改正内容になっていることが合意を逸脱したものではないかと議論になっていると僕は理解している。

www.asahi.com

 

中身を見ていく前に、前提としての「改正が行われた経緯」についてざっくりと言えば、

上皇陛下が退位された際の退位特例法の衆参両院の附帯決議(平成29年、2017年)において、「政府が、安定的な皇位継承を確保するための諸課題について検討し、国会に報告すること」及び「その報告を受け、国会は『立法府の総意』の検討を行うこと」

が定められていた。

一 政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、皇族方の御年齢からしても先延ばしすることはできない重要な課題であることに鑑み、本法施行後速やかに、皇族方の御事情等を踏まえ、全体として整合性が取れるよう検討を行い、その結果を、速やかに国会に報告すること。
二 一の報告を受けた場合においては、国会は、安定的な皇位継承を確保するための方策について、「立法府の総意」が取りまとめられるよう検討を行うものとすること。

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/taii_futaiketsugi.pdf/$File/taii_futaiketsugi.pdf

 

そして、その附帯決議における

〇 1つ目に基づいて、令和3年(2021年)、有識者会議報告(※1)が行われ、

〇 2つ目に基づいて、当該報告を受け、立法府において検討がなされていた(※2)ものであり、

自民・維新の連立合意でも令和8年通常国会における皇室典範改正が明記された(※3)こともあり、今国会における議論集約が加速されて行われたのが今回のとりまとめ及び改正に至る経緯である。

 

※1:「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/taii_tokurei/index.html

※2:www.shugiin.go.jp

※3:古来例外なく男系継承が維持されてきたことの重みを踏まえ、現状の継承順位を変更しないことを前提とし、安定的な皇位継承のため、皇室の歴史に整合的かつ現実的である「皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする」案を第一優先として、26年通常国会における皇室典範の改正を目指す。

 

 

そうした経緯に基づく今回の改正について、

・まずは【その1】として2点それぞれについて改正の概要を見ていきつつ、

・【その2】として、個人的な考えも整理していきたい。

 

 

まずは、「①旧皇族男子の養子化」について。

 

まず、どのような規定になっているか、条文ベースで見ていくと、新たに創設された皇室典範の第6章「養子皇族男子」における第38条。

 

第一項には、次のようにある。

第三十八条 親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王(皇嗣及び皇嗣妃を除く。)は、皇室会議の議を経て、この法律による皇族男子であつた者の嫡男系嫡出の子孫である現に皇族でない年齢十五年以上の男子であつて、配偶者及び子がないものに限り、養子とすることができる。

 

「この法律による皇族男子であった者」とは、昭和47年にGHQの指示(※)により皇籍を離脱することとなった旧宮家を指し、その男性子孫の15歳以上の者が、上皇陛下及び天皇陛下以外の養子とすることができるというもの。

 

なお、皇族男子であった者の「子孫」であるので、対象者となりうる人たちはそもそもかつて皇族であったことはない。そのため、皇族であった人を皇籍に”復帰させる”という訳ではなく、あくまで旧皇族の子孫が、皇族ではない状態から新たに皇族になるというものである点に留意が必要。

※実際は、皇室の民主的統制を重視したGHQが皇室財産に目をつけて皇室予算の削減と皇室財産への財産税適用を行ったことにより、自主的に皇籍離脱をせざるを得ないように仕向けたようであるが、その経緯は、「皇室典範」に詳しい。

皇室典範―明治の起草の攻防から現代の皇位継承問題まで -笠原英彦 著|中公新書|中央公論新社

 

そのうえで、第四項によれば、当該「養子皇族男子」は第二条(=皇位継承)は適用しないため、皇位継承権を持たないこととされた。

第三十八条 
④ 養子皇族男子(前項の規定により皇族となつた皇族男子をいう。以下この条において同じ。)については、第二条の規定は、適用しない。

第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
 一 皇長子
 二 皇長孫
 三 その他の皇長子の子孫
 四 皇次子及びその子孫
 五 その他の皇子孫
 六 皇兄弟及びその子孫
 七 皇伯叔父及びその子孫
② 前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。
③ 前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。

 

一方で、問題となったのが、第6項だ。

第三十八条
⑥ 養子皇族男子に係る第七条の規定及び第九項の規定により読み替えて適用する第十七条第二項の規定の適用並びに養子皇族男子の子孫に係る第二条及び第六条の規定の適用については、実方の系統によるものとする。

 

第6項において、養子皇族男子から生まれた子孫については、実方の系統、つまり養子先の系統ではなく「本人の系統」によって、第2条(=皇位継承)の規定が適用されるというものであり、養子皇族男子の子孫は皇位継承権を有する規定となっていることに対して、冒頭のとおり、反発が生じた。

www.asahi.com

 

確かに、今回の改正取りまとめられた立法府の総意(令和8年6月10日)を見てみると、旧皇族の男子(子孫)の養子化を認めつつも、その子孫が皇位継承権を持つかどうかについては全く言及されていないシンプルなものになっているので、その批判もごもっともである。

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/houkoku_20shiryo01.pdf/$File/houkoku_20shiryo01.pdf

 

一方で、この議論を始めた当初、立憲民主党(当時)の野田佳彦議員は、このように述べていたし、

令和4年1月18日 (議事録p.8)

○衆議院議員(野田佳彦君)
 最後はちょっと答えがきちっとしていないんですが、養子になられた方が御結婚されたときに配偶者は皇室に入るのか、お子様が生まれたら男系男子として皇位継承資格が生ずるのか、そこまでちゃんと考えているのか考えていないのか。

○内閣官房皇室典範改正準備室長(大西証史君)
 ありがとうございます。会議におきましては、そういうことでございます。【中略】なお、現行の皇室典範では、皇族の子、皇族の夫婦から生まれた子は皇族となるということになってはございます。

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/houkoku_01gijiroku.pdf/$File/houkoku_01gijiroku.pdf

また総意のとりまとめを行う際には、共産党の小池晃議員は、(さすがともいうべきか)このように喝破していた点からするに、

令和8年6月8日 (議事録p.8) ※総意のとりまとめ案を提示した日

〇参議院議員(小池晃君)【前略】第二案の「皇族には認められていない養子縁組を可能にし、皇統に属する男系の男子を皇族とする」ことには重大な問題があります。
【中略】さらに 、今回の養子縁組制度が養子として皇族となった方の子孫に皇位継承資格を持たせようとする議論と一体のものであることは看過できません。

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/houkoku_18gijiroku.pdf/$File/houkoku_18gijiroku.pdf

 

自民党が男系男子による皇位継承を進めようとした下心を疑わざるを得ないが、その点、手法は汚いかもしれないが、これはこれで政治的な合意であり、養子の子孫についてきちんと牽制できていなかった点は野党(とりわけ、野田佳彦元首相不在で戦った中道改革連合)の落ち度であるともいえ、一概に、不適当なやり方と切り捨てることはできないと考える。そのやり方がいいかどうかはさておき。

※かつて、自・維で、旧文通費について合意し、そののち、旧文通費改革の時期に関する認識の相違が露呈し、合意文書には明示的に「今国会で」とは規定されていなかったことから、最終的に自民と維新が決裂したことに近い・・・?

www.jiji.com

 

続いて、「②女性皇族は婚姻後も皇族にとどまり続けることを可能にすること」について。

 

そもそも、女性皇族は、皇位継承権を有していない。(皇室典範第1条)

第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

 

そうした中、従来の規定(第十二条)により、婚姻後は、皇室会議を経て皇族の身分を離れることとなっていたが、今回の改正でその規定が削除され、自動的に離れることはできなくなった。

第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

 

なお、今回の改正では、改正法附則第2条において経過措置が設けられており、施行の際の女性皇族については、結婚に伴って皇室の身分を離れることができる旨、規定されているため、厳密には今の内親王及び女王は、現行制度(改正前の制度)のまま、離れることが可能である。

(皇室典範の一部改正に伴う経過措置)

第二条 この法律の施行の際における内親王又は女王(以下「施行時内親王等」という。)が天皇及び皇族以外の男子と婚姻する場合において、当該施行時内親王等が当該婚姻と同時に皇族の身分を離れようとするときは、皇室典範第十一条第一項の規定にかかわらず、皇室会議の議によることなく、その意思により、皇族の身分を離れることができる。この場合において、当該婚姻については、第一条の規定による改正後の皇室典範(以下「新典範」という。)第十条本文の規定は、適用しない。

 

以上が、改正の概要である。

 

①②いずれも、皇族数確保、また喫緊の課題として合意をしておくべきという観点のみでみれば適当な選択肢かもしれないが、個人の意見としては両案とも反対であり、それについては、【その2】で整理していきたい。

 

参考:内閣官房提出法案

https://www.cas.go.jp/jp/houan/221.html

いじめはなくならない。

 

「いじめ重大事態」の悲しいニュース。

「国に帰れ」ランドセルにクギ…外国ルーツの児童が被害 「いじめ重大事態」に認定(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

 


いじめ防止対策推進法第28条に示される「重大事態」に該当すると判断すれば、学校は調査等必要な対応を取ることとなる。

laws.e-gov.go.jp

 

一 いじめにより当該学校に在籍する児童等の生命、心身又は財産に重大な被害が生じた疑いがあると認めるとき。

二 いじめにより当該学校に在籍する児童等が相当の期間学校を欠席することを余儀なくされている疑いがあると認めるとき。

 

過去には、いじめで自殺せざるを得なかった数々の子どもたちがいる。大津市のいじめはとても記憶に残っている。

大津いじめ自殺事件 - Wikipedia

 

「いじめは絶対に許されない」「いじめはあってはならない」と言われるし、自分もそう習ってきた。

 

子供のときは、いじめがダメなのはわかっていたし、その教えに納得していたけれど、大人になって、その教えにはモヤモヤするところがある。


モヤモヤを象徴するのが、この出来事だ。

gendai.media

 

教員間で激しいいじめがあったという衝撃的な事件。

調査委員会では「ハラスメント」とあるが、要は「いじめ」である。

 


生徒に範を示すべき教員がいじめをしていたなんて、言語道断であり、開いた口が塞がらないとはこのことだ。

 


ただ、1つ言えることは、大人の世界においても「いじめ」はなくならないし、「いじめ」や「いじめに繋がりうる萌芽」自体は、どの社会的集団にも存在しているということだ。

 

「萌芽」については、たとえば、

・誰かを集団で過度に"いじる"こともいじめに該当しうるし、

・誰かの悪口を集団で陰で言うことも、ある種"いじめ"に該当しうる、

ということだ。

 


いずれも大人の社会で日常的に起こりうるものだ。

というか、起きているものだ。

 


いじめのケースは、加害者からすれば「いじめていたとは思わなかった」というケースも多いと思え、その点、特別なことではなく、日常の営みと表裏一体で起こっていることだ。

※もちろん、いじめは認められないのは大前提で、それを許容しているわけではなく、いじめは身近なもの、かつ日常の行為の延長線上にあるということを言いたいという趣旨

 


政治家も、嫌いな人を集団で干すとか、平気でやっているではないか。それも"いじめ"である。

 

そんな、大人の社会でも身近な存在である「いじめ」を、子どもに対して、「いじめはあってはならない」「いじめはしてはならないものだ」と、ゼロヒャクで教え、まるで大人の世界でいじめなんて存在していないかのように綺麗事を教えることは、子どものためにならないのではないかと思う。 

 


戦争はダメだ、と教えるのに近いと思う。

戦争はダメなのは大前提だが、戦争なんてなくならないのである。実際、今も起こっている。平和を守るべき、守護神であるはずの常任理事国の大国が、戦争を起こしている。しかも同盟国のアメリカもだ。

 

大事なのは、戦争がある「汚い世界」にいるという前提に立ち、何をするか?というリアリスティックな視点ではないか。

 

戦争がない世界が理想だ、と言っていても、戦争は防止できない。

戦争がある前提で、戦争を受け入れて、その被害をどう食い止めるか、という方策を考える方がいいのではないか。

 


いじめに話を戻すと、大人も子供も3人集まれば2対1になる以上、いじめのタネは至る所にあり、いじめが起きない社会はない。

 

大事なのは、いじめが起きそう、起きうるとき、起きてしまったときにどう対応するかという観点も踏まえ、悲惨さや身近さをきちんと認識させ、リアリティを持って捉えてもらうことではないか。

 


たとえば、

・子どもに対して、架空のストーリーではなく、悲惨な、実際のイジメ事件(大人の事件も含む)で何が起こったかを実例をもとに教える、

・子どもに対して、そもそも、人には仲良くなれない人がいることを教える。(友達百人、なんて嘘八百である)

・そのうえで、被害者の子供に対して、仮にいじめのようなことがあった場合に、無理に学校に出て馴染もうとするのではなく、逃げること、逃げ道があることを教える(※子どものときは、コミュニティが1つしかないから、学校第一に考えてしまうが、逃げ場がある(休むも選択肢、転校も選択肢)ことをきちんと伝える。それも、いじめの存在を前提としたリアルな選択肢の1つではないか)

・ほかにも、子どもに対して、子ども間で何か嫌なことがあれば、その解決を集団の力に頼るのではなく、当事者間で話し合いも含めてきちんと解決するように教える
(その点、1対1の喧嘩なんて、一番いい手段だと思う。2対1で1を負かそうとするのは卑怯であると自覚してもらう)、

とか。

 

また、これは最終措置の話だが、通常、いじめを受けた被害者の子が転校することを余儀なくされるが、それはおかしい。懲罰的に、いじめをした「加害者」を転校させる措置を取り、そのタネを永遠に摘む措置をとること(※これは、いじめ防止法では明記されていないが、いじめ防止法の「懲戒」に含めるべきである)をスタンスとして明確にする

(校長及び教員による懲戒)

第二十五条 校長及び教員は、当該学校に在籍する児童等がいじめを行っている場合であって教育上必要があると認めるときは、学校教育法第十一条の規定に基づき、適切に、当該児童等に対して懲戒を加えるものとする。

(出席停止制度の適切な運用等)

第二十六条 市町村の教育委員会は、いじめを行った児童等の保護者に対して学校教育法第三十五条第一項(同法第四十九条において準用する場合を含む。)の規定に基づき当該児童等の出席停止を命ずる等、いじめを受けた児童等その他の児童等が安心して教育を受けられるようにするために必要な措置を速やかに講ずるものとする。

 


そして、いずれも、仮に教員や教育に関わる職員の間でいじめが起きた場合は、コソコソ隠さず、それを真摯に正直に子どもにも共有し、"良い教材"にした上で、教員に対してきちんと厳しい処分する懲戒する(という義務を法定すべきである。笑)、ことは大前提。

 

 

いじめは、絶対にダメである。

 

自分も人ごとではなく、ふと自分がした言動で、相手が傷ついていないかどうか、きちんと気をつけないといけないと思っている。

 

いずれにせよ、「いじめ」は社会には存在しないと綺麗な建前を教えるのではなく、またそんな幻想を観念するのではなく、いじめがどこでも起こりうる(というか起こっている)リアリティーを皆が自覚し、普段自分が関わる人間関係の延長で存在している身近なものであることを1人1人が肝に銘じ、いじめの存在を前提にした対応や教訓を学んでおく必要があるのではないかと思う。