消費減税の実施をめぐって、来年4月から、食料品に係る消費税が8%から1%に引き下げられることが閣議決定された。
自民党内の議論では減税の実施に否定的な意見も目立つ中、高市総理・総裁のリーダーシップで事実上の「政治決断」が行われた。
今回は、その「政治決断」について考えたい。
政治決断は、意見が二分されるようなテーマにおいてしばしばなされる。
パッと思いつくのは、「郵政民営化」や「消費税の導入」といった内政テーマ、また、「TPPへの加盟交渉」や「日韓慰安婦合意」といった外政テーマもある。
そういった巨大な、まさに国論を二分する政策テーマだけではなく、新しく制度を導入するようなもの、例えば、「ふるさと納税の導入」や「デジタル庁の設置」も政治決断に該当するのかもしれない。
では、「政治決断」とは何を指すのか。
国家公務員の仕事をしていると、「これは政務に上げなければならない」という案件にしばしば遭遇する。
それが指す真意は、「役人だけでは決めきれない」にある(と思っている)。
「役人だけに決めきれない」ということを理解する前提として、「政治家と役人の間に存在する厳然たる違い」を認識しておく必要がある。
「身分が何によって裏づけられているか?」ということだ。
「政治家」は、選挙を経て、それぞれの選挙区の選挙民の民意を代表して、永田町に議席を有し、発言している。その裏には、何万の国民の声があり、「この人に世の中を託したい」と広範な委任を受けている。
一方、「役人」は違う。選挙によって国民から直接権限を付託された存在ではなく、採用され、任命され、それぞれの持ち場で行政を担う存在だ。どんな階級の誰であろうと、任命権者は、(基本的には)政治家たる国務大臣である。
その点、政府・役所としての決定権者は「国務大臣」であり、国務大臣を任命する「内閣総理大臣」が最終決定権者となる。
※内閣人事局による幹部人事一元化制度は、この点においては論理的に正しい制度であると思う。
とはいえ、政府全ての意思決定を総理や大臣まであげていたら何も進まないから、役人は役人として政務に諮らずに行う日々の意思決定を行いつつも、政治的責任を生じうる決定については、決定権を有する政務の判断を仰ぐことになっている。
政治的責任を生じうるかどうかの線引きについて、
誤解を恐れずにざっくりと言えば、
・「どの方向に進むか」を政治が決め、
・「どうすればその方向に進めるか」を行政が考え、実行する
というイメージに近いかと思う。
例えば、直近で言えば、菅総理が政治判断した「黒い雨訴訟」の上告断念はまさにその例だ。
(参考)
つまり、政治決断とは、「民主的正統性を持つ者が、その決定の責任を引き受けて新たに方向性を示すこと」といえる。
政治家がそうしたことをすることができる「権力」の源泉は、いうまでもなく、「民意」だ。
国民から権力の付託を受けた国会議員から選ばれた「総理大臣」及び「内閣」こそが政府を動かす権利を有するという、まさに間接民主主義そのものである。
警察庁長官から衆議院議員、内閣官房長官になった後藤田正晴氏は、著書「政と官」にて、政治家と役人の違いについてこのように喝破している。
「政策を決めるのは、内閣である。」
「この決定を行政機関が実行する。これが、日本国憲法が想定している役人の位置づけである。」
もちろん、「政治決断」であれば何でも正当化される、ということではないと思う。役人は、政治家がやろうとしている政策のメリットやデメリット、またその実現可能性についてフラットに整理して政治家に示すという重要な役割があり、政治決断の前には、きちんと議論が行われることが必要だ。
しかし、そうした材料が出尽くしてもなお、最後に残る「どちらを決断するか」という問いがある。その最後の一線を越える権限を持つのは、「役人」ではなく「政治家」ということになる。
後藤田正晴氏も、このように言っている。
「政策を決めるのは、あくまで政治家である。国民が政策作りを委託したのは役人ではなく政治家である。それが民主主義の基本だ。」
と。
今回の消費税減税も、参院選及び衆院選という2回の選挙を経て訴えられた民意を受け、自民党・維新の会連立政権の長たる高市総理において政治決断がなされたものだと理解している。
もちろん、財政規律を損なうだとか、効果が薄いだとか、批判はあるし、それが日本経済に悪手になりうるのかもしれない。社会保障の財源に穴を空けうるものなのかもしれない。
それでも、総理が決断した「消費税の減税」は、それを望む切実な国民の声を、政府の長として、与党の長として真摯に受け止めた結果として決断されたものであり、その意味で、尊重されるべきものではないかと考える。
このように考えたとき、消費減税をめぐるこの記事には、違和感を覚えた。
・財務官僚は「消費税減税ではなく、低中所得者に絞った『給付付き税額控除』に着地させたい。それが高市政権の長期安定にもつながる」と強い矜持を示し、なんとか総理を説得したいと話していた。
・しかし、減税は「国民との約束だ」と位置付ける高市総理の決意は揺るがなかった。減税の方針が決まった瞬間に、先の官僚は「本当に決まってしまった。何のために今までやってきたのか」と力なく肩を落とした。それは財務省にとって、消費税がいわば「聖域」だったからでもある。
・「物価高に対する税制上の手当てが遅れたことが、すべての引き金だった」と財務官僚は反省気味に顧みる。
問題は、消費減税に反対している、ということではない。役人が専門的知見から「この政策にはこういう問題がある」と政治家に意見することは、前述のとおり必要だ。
違和感を覚えたのは、政治決断を役所側の「勝ち負け」として捉えているかのように見えることだ。
コメントしている財務官僚の正確な意図がよくわからないが、ストレートに受け取るとすれば、その発言には、どう国民の現状に合わせていくか、という視点が抜けているように思え、その点、後藤田氏はこうも言っている。
「役人の側の問題としては、思い上がりの意識がある。」
「彼らは、自分たちは国益中心で物事を考えていると信じ込んでいる。その国益とは、非常に主観的なものである。」
「彼らは大衆の批判にさらされていない。役所の窓からしか物事を見ていない。このため、国益という名の省益に流れてしまう欠点を持っている。」
と。
前述の財務官僚の発言は、後藤田氏が指摘した官僚の陥りうる罠と重なってしまっているように思える。
もしそうであるなら、「国民生活のために何をするか」という本来の視点から乖離してしまっているように思え、それを正したのが政治家たる高市総理、とみることはできないだろうか。
また、時々、「役人(霞が関)と比べて政治家(永田町)を軽んじる言説」を目の当たりにするが、同様の文脈で、私は違和感を覚えている。
政治家は選挙区をくまなく歩き、有権者の要望を聞き、ときには厳しい批判を直接受けながら選挙という厳しい審判をくぐり抜けて議席を有している人たちだ。選挙に落ちれば、ただの人になってしまう刹那的な性質も併せ持っている。
少なくとも、その過酷なプロセスは役人には経験しえないし、そのプロセスを潜り抜けたということが、政治家の凄さであり、リスペクトに値する。その政治家がたとえどんなに突飛な発言をしようとも、その人が選挙というプロセスを経て、一定の民意を背負って議席にいることは忘れてはならない。
一方でもちろん、「役人」にも「専門性」という役人の強みがある。
とある役人の先輩の言葉に、
「役所の仕事は、理想を政策に変えて売る仕事」
という言葉がある。
私はその言葉は、役人の仕事を言いえているように思う。
役人の仕事は、民意の付託を得た政治家の指示を受け、いかに良い政策という形にして世の中を動かしていくか、その一点にあるのだと思う。
その意味で、政治家が世の中を動かす「決断」自体は、それが民意の裏打ちを得ているなら尚更、行政が組織としての従来の判断に固執するべきものではなく、政府全体、また世の中全体として、一定の尊重がなされるべきであると思う。
もちろん、「政治決断」は賛否両論あると思う。
メディアも役人も、問題があると思えば声を上げればよい。
ただし、最後にその決断の結果責任を負うのは政治家であり、その政治家を最終的に評価するのは選挙区の有権者だ。
正しいかどうか分からないことを、責任を引き受けて決める。それこそが、数万人の民意の負託を受けた政治家にしかできない仕事だから、なされた「政治決断」は、尊重すべきだと思う。
その政治家は、我々がきちんと選んで、託した人たちなのだから。
