2週間前ですが、尼崎に行ってきました。
知り合いに誘われ、尼崎で街づくりの活動をされている藤本さんに案内してもらう、10人規模の1泊2日のツアーでした。
藤本さんについては参考
https://greenz.jp/2017/12/05/people_fujimotoryo/
尼崎という街の知られざる魅力や、面白いことをされている方の話を聞くことができ非常に楽しいツアーだったのですが、
その過程で、
西正寺というお寺の中平和尚のお話を聞きました。
西正寺は面白くて、寺をオープンにする取り組みをされています。
代表的なのはカリー寺でしょうか。
ざっくり言うと、カレーを寺で食べるという企画で、
西正寺オリジナルカレーを販売したりと色々展開されており、
余った収益を生かして、カリー寺基金なるものも創設したそうです。
参考
http://tarikihongwan.net/tera_plus/12946.html
つい最近までクラウドファンディングしてました。
(僕もわずかながら支援しました!笑)
https://camp-fire.jp/projects/211382/activities/115566
カリー寺以外にも、
寺を開放して講演会したり、寺のお掃除を手伝ってもらう会をしたりと、
寺と人との距離を縮めようとする活動に注力されています。
僕は、めちゃめちゃ面白いと思いました。
なぜなら、
僕も今の時代、寺がどのような役割を果たすのか?について興味があったからです。
寺は、今厳しい時代に直面していると聞きます。
寺を長年支えてきた檀家が高齢化し、財政的に厳しくなってきていますし、お墓も寺に置かない人も増えつつあり、寺との接点がどんどん減ってきています。
参考記事
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20170405-OYT8T50063/
そんななか、
中平和尚は、寺を地域に開放していく取り組みをしています。
実際、かなりの人が集まっているようです。
まさに、地域のコミュニティとしての寺。
多分、寺子屋とか、昔は地域において寺ってコミュニティスペースみたいな役割を果たしていたんだろうな。
ただ、僕には、寺を開放するということで、気になる点がありました。
それは、寺を一般の文脈で開放すればするほど、寺の本質である宗教的な意味合いが薄れてしまうのでは?
という疑問です。
僕はこれを中平和尚に質問しました。
その返しで、中平和尚は面白いことをおっしゃいました。
「寺とは無関係に広げれば広げるほど、最後は宗教的なニーズに収斂していくんだよねぇ。」
最初は寺の宗教的な意味合いとは無関係な文脈で接点を持った人が、
みんな、親鸞の教えを聞きたい、仏教をもっと知りたい!と中平和尚のところに遊びに来るようになるそうで、今やZoomで仏教の勉強会なども開いているそうです。
腐っても寺
ということか。
現代において、新興宗教含め様々な宗教が生まれ、また外国人の割合も高くなっている時代、
仏教を掲げる寺が果たすべき意義はどこにあるのか?
いつの時代にも宗教的なものは求められるが、
その時、そして今求められるものが寺である必然性はあるのか?という問い。
色々勉強して、寺の未来についてもっと考えたいと思いました。
寺をどう再定義していくかに今興味があります、という話でした。