映画フクシマ50を見ました。
言わずもがなですが、
東日本大震災での福島第一原子力発電所での事故対応を描いた映画です。
個人的に、福島には震災後、合計3度足を運んだことがあります。そのうち一回は、原発事故で人がいなくなってしまった浪江町。
(※2017年に行きました。)
文字通り人がいなくなってしまっており、街ががらんとしていました。原発事故の重みを実感しました。
さて、映画を見て特に興味深いなと思ったところが2つあります。
1つ目は、愛郷心が国家を救ったということです。
事故が起き、発電所員が必死に対応しますが、その現場の中心となるのは、佐藤浩一演じる、地元の出身の伊崎当直長です。(伊崎当直長自体は仮名)
伊崎当直長は、
原発のある街で生まれ、父親を原発で働いている、まさに原発で育った人でした。
そして、事故の今も、家族は原発の近くで住んでいる。
伊崎当直長だけではなく、
現場の多くの人は、福島第一原発の近くで生まれ、近くに住んでいるような、
いわば原発自体が故郷の人が大半です。
なかなか事故対応がうまく行かず、現場の人間も投げ槍になりつつあるなかで、伊崎から出た言葉が、
「俺たちの故郷を俺たちが守んなきゃ、誰が守るんだよ!」
でした。
その言葉もあって、みんな目覚め、決死の覚悟で事故対応に臨むわけですが、
ここに、愛郷心が国家を救った現実を見ました。
一応実話を基にしたフィクションですが、多分、実際もこういうことだったと思います。
自分には家族もいるし、目の前の過酷な現実から逃げ出したい気持ちにもなると思います。
国のためにやれ!と言われても、国ってなんだかわからないから、自分に国を背負えない、そんな考えにもなると思います。
けれど、
愛する故郷のために、故郷を守るためにこの原発を押さえ込むんだ、故郷を守ることができるのは自分たちしかいないんだ、
と考えることが、
現場の作業員の方の気持ちの維持に繋がった。
(もちろん、それだけではないことは重々承知の上です)
福島への愛郷心が、原発を救い、国家を救うことになったのだな、と興味深く思いました。
元々兵役も、基本地元の人が地元の師団に配属されていたので、
大きく俯瞰すれば地元愛が利用されるという、ある意味での残酷さを垣間見ました。
その残酷さは、2つ目の話にもつながります。
2つ目は、国家事業というものを一つの街に背負わせる重みです。
最後、事故処理がひと段落したあと、
伊崎当直長と吉田所長は、2人でこうため息をつきます。
「俺たちは何か間違っていたのか?」と。
原発処理という目の前の事故の話もありつつ、自分たちが安全で国のためになると信じてきた原発というものに対する問いだと思います。
クリーンなエネルギーと喧伝し続けてきた原子力発電が、今や、汚染物質を排出する装置と化している。
その端緒を、ベントという手段を通じて、故郷を背負う現場の作業員が担ったわけです。
多分、今まで信じてきたものが崩壊する瞬間だったのだと思います。
僕は、そこに国家の一種の残酷さをみます。
国を挙げて導入する原子力発電というものを、一つの街に背負わせる。
何も起こらないときはいいが、
事故が起こったら、福島のようにその街そのものが壊滅してしまうことになる。
その全てを、その街の人々に担わせることになる。
原発の建設では、賛成反対で街が分断されたこともあったかもしれない。
原発の操業では、自分たちが信じてきた原発を信じるしかないかもしれない。
原発の後処理では、国中から嫌われ、国中から批判の目で見られても、真っ白な地元を取り戻すことができない。
そんなすべての過程を、一つの街、一住民に背負わせているような気がしました。
一つ目の、俺たちが故郷を守んなきゃ誰が守るんだよ!という言葉は、いい台詞である反面、地元の人しかそこまで賭けられないという冷酷な現実も示している気がして、ちょっと怖い気持ちもしました。
それは、原発のように、特に地元で雇用を作り、地元でエコシステムを回すものだったからそういえるのかもしれません。
今まで信じてきたものはなんだったのか、何か間違っていたのか、その問いに逡巡する伊崎当直長をみて、
僕は国家というものの残酷さを垣間見ました。
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東日本大震災と福島第一原発事故は、第二の敗戦とも言われるほど日本に大きな爪痕を残した出来事だと思います。
フクシマ50を見るだけではなく、
東日本大震災をもっとちゃんと学ばなければいけないなと思いました。