三男日記

愛知県蒲郡市出身、今東京におります三男です。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

映画「怪物」の考察 (ネタバレあり)

映画「怪物」を見てきた。

 

https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/

 

ずっともやもやして、胸が締め付けられたまま終わった映画だったが、何か感想を書きたくなるくらい、中身の詰まった考えさせられる映画だった。

 

(以下、平気でネタバレあり)

 

といっていきなりネタバレになるが、映画の最後のシーン

 

最後、2人の秘密基地の扉を開いたお母さん(安藤サクラ)と保利先生(永山瑛太)は何を目撃したのか。

 

また、麦野奏と星川依里の2人は現実に戻ったのか、はたまた現実に戻っていないのか。

 

 

ラストをはっきりさせないことで観客の心の奥底を揺さぶり、問題提起をされているように感じた。

 

この映画のテーマを一言でいえば、

実はみんな『ふつうじゃない』

ということ。

 

ふつうじゃなさを抱えているのは、異質に目立っている誰かだけではなく、実は誰しもが「ふつうじゃなさ」をそれぞれに抱えて暮らしている。しかし、ややこしいことに、ほとんどの人は往々にして自分はふつうだと思って生きている。

 

実はみんなふつうじゃなさをそれぞれに持っているのに、自分をふつうだと思い、またそれを裏付けるかのように「ふつう」の仲間に入って自分はふつうだと安心したい

そんな思いで周囲に対して、お互いにふつうであることの承認を求め続けている社会が今の社会なのだと、この映画は案に示唆する。

 

その上で、そんな社会において「ふつう」と「ふつうじゃなさ」の狭間に苦しむ人がいるという現実を突きつける映画が、この「怪物」なのだと感じている。実際、脚本家の坂元裕二は、カンヌ脚本賞を受賞したとき、「たった一人の孤独な人に向けて書きました。感無量です。」と是枝裕和監督にメールしたという。「孤独な人」とは、狭間に苦しみ、戦っている人のことなのではないか。

 

 

さて、映画をこのように解釈したとき、タイトルである「怪物」にはどんな意味が込められているのか。

 

つまるところ、「ふつう」の対極に位置する「ふつうじゃなさ」を表現したいときに、映画のタイトルはなぜ「怪物」である必要があったのか。

 

 

 

 

そこで、まずは「怪物」という単語の意味を調べてみる。

 

怪物とは、(デジタル大辞泉によれば)

正体のわからない、不気味な生き物ネガティブ

性質・行動・力量などが人並外れた人物ポジティブ

を意味する言葉であり、ネガティブとポジティブな意味が両存している。

 

「誰々は怪物だ」と誰かを形容する意味で使うとき、大人の世界ではポジティブな②の用途で使うことが多い。

 

「甲子園の怪物高校生、○○」

みたいな、天才・鬼才・非凡・逸材といった意味。

 

一方、今回の映画の舞台となっている「学校(=子どもの世界)」では、「怪物」は①のネガティブな意味で使用されることが多い。(というか子どもはそもそも②の用途を知らない。)

 

そうした、子どもの世界における「怪物」のネガの意味性を際立たせるかのように、劇中、「怪物だ~れだ」のカードゲームが登場しており、そのカードにおいて「怪物」とされているのは、どれも若干気味が悪い、変な生き物ばかりである。

 

また、途中、いじめられっ子の星川依里が揶揄されている「宇宙人」という悪口は、まさに「怪物」と同様の意味で使われている。馬鹿にされ、「触ったらうつる」として周囲から避けられる存在。それが「怪物」。

 

 

そんな、子どもの世界ではネガティブに使われる「怪物」という言葉が、大人の世界になると一転ポジティブな用途で使われているという意味の違いこそが肝であり、

「怪物」という言葉を選んだ妙であり、

この映画の主題に通じてくる話だと思う。

 

 

 

どういうことか。

 

 

 

子どもの世界では、いわば“ふつう”な生き方が当たり前とされ、それ以外のものは排除されようとする。

 

毎日朝早く起きて登校し、

授業に遅れないように出席して、

授業ではちゃんと先生の話を聞き、

友達と仲良く遊んで、

男の子は強くあれと指導され、女の子はかわいくあれと指導される。

 

そういう"あたりまえ"のことができない子は、ふつうを強制され、ふつうができないと最終的には排除される。

 

この映画での「学校」という場は、ふつうを強制する象徴として描かれている。

 

もっと正確に言うと、「ふつうじゃなさ」を排除する象徴である。ふつうじゃなさを抱えている人が生きづらくなるような、そんな世界が学校。

 

一方で、映画で描かれている通り、大人の世界には「ふつうじゃなさ」は案外身近に潜んでいる。誰もが自分のことをふつうだと思い込んでいるのが面倒くさいのだけれど、

とはいえ、誰もがみんな「ふつうじゃなさ」を自覚無自覚問わず、抱えている。

 

お母さん(安藤サクラ)も、保利先生(永山瑛太)も、自身を普通の人と思っているし、冒頭の描かれ方だと2人とも何の変哲もない人だと思いきや、映画で描写される複数の視点を通じ、巧みにそのイメージは裏切られる。

 

保利先生は、お母さんからは体罰や不都合をごまかす、「ろくでなし人間」として思われているし、

お母さんは、学校からは一人親の「モンスターペアレント」として思われている。

 

まさに、誰もが誰かにとっての「怪物」たりえるということである。

 

ただそうしたことは、本人主観の世界だとわからず、あくまで誰か別の視点で見ないとわからない。そうした点で、大人の世界において「ふつうじゃなさ」は潜在的にあらゆる人に遍在しており、「ふつうじゃなさ」を抱えても社会で「ふつうに」生きていくことはできるのだということを暗に伝えてくれる。

 

つまり、タイトルで指されている「怪物」であるのは、学校において周囲から「ふつうじゃない」と認識されている星川依里だけではないのだ。

 

「怪物だ~れだ」というキャッチコピーから読み取れるように、自分のことを「ふつう」と認識している大人たち自身も、実は怪物なのかもしれない、ということであり、

結局のところあらゆる人が「怪物」たりえるし、実際は「怪物」であるのだ、という事実を投げかけられているように思う。

 

 

そうした事実を投げかける上でさらに注目すべきは、

映画の最後で、現実なのか想像なのか明示されぬラストが描かれている

ところだ。

 

よくありがちなドラマでは、「『ふつうじゃなさ』を受容し合って生きていこう」というラストではみんなハッピーになる描き方がなされる。

 

この映画でそれをしていないのは、“きれいな終わり方”は許さないということなのだと感じる。

 

きれいに終わる描き方をせず、何とも言えない終わらせ方をすることにより、現実はそうした終わり方のように決して甘くはないことを示唆しつつも、

映画が本当に伝えたいメッセージは、

「ふつうじゃなさ」を持っている人は世の中にはいっぱいいるから、ふつうじゃないこと自体がダメなことではないんだ

ということなのだと思う。

 

もちろん、“夢のように”楽しんでいる姿が描かれるのは、「ふつうじゃなさ」を認め合って生きることはこんなにも解放的なのだ、という趣旨だとは思いつつも、

それをあくまで現実として描かないことにより、大人含め全員にそうした価値観を押し付けているわけではないというところにストーリーの肝があるように思う。仮に、現実として描くと、その描き方が逆に誰かに対して「ふつう」を強制してしまうことになりかねないから。。。

 

 

 

と、改めていろいろ思いを馳せてみても、解が出きった感じがしない映画だったが、

社会における「ふつう」と「ふつうじゃなさ」のありようについて、強く突き付けられ、心をえぐられる映画だった。

 

面白かった。ありがとう。