今更ながら、ネットフリックスの「First Love 初恋」を見た。控えめに言ってもめちゃくちゃ良くて、観た後の余韻がすごかったので、その余韻を文章にまとめたくなった。
First Love 初恋 | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト
まず、ドラマの凄さの前提として、
●宇多田ヒカルの「『First Love』(1999)と『初恋』(2018)の間を描く物語を作る」という【着想】自体、めちゃめちゃクリエイティブだし、
そのうえで、
●【描き方】として、「その2つの歌のブリッジを『記憶喪失』として、初恋の記憶を取り戻すストーリーとしてドラマを構成する」という脚本が、さらにも増してクリエイティブ
だと思った。
【描き方】については、拠り所となる宇多田ヒカルの歌詞を見てみると、
・『First Love』の方は、”初恋を失恋した後”を、
・『初恋』の方は、かつての初恋に今でも体が反応してしまう”初恋の変わらぬ生々しさ”を、
それぞれ描いている。
(参考)
『First Love』
https://www.uta-net.com/song/11567/
『初恋』
https://www.uta-net.com/song/249732/
【着想】の観点で改めてドラマ全体を振り返ってみても、
「記憶喪失」というブリッジで2つの歌を結んだことにより全体のピースがぴしゃりとはまり、2つの歌がきれいな1つのストーリーとなっているなと思う。
繋がったストーリーはこうだ。(と僕は思う)
『First Love』と『初恋』の間には、記憶喪失があり、記憶喪失によって、『First Love』で歌われているように初恋は失われてしまった。ただ、その当時の初恋の感覚を『初恋』で歌われているように今でも体が覚えているからこそ、初恋の相手と再び交わった時に、これが初恋だったのだ、と思い出し、初恋が呼び戻された。
これこそがまさに宇多田ヒカルの『First Love』と『初恋』の間を埋めた、両者が具現化された世界観なのではないかと思わせる納得感があった。
(2つを繋ぐブリッジについて、「記憶喪失」はあくまで解の1つだとしても、自分で考えても絶対「記憶喪失」までたどり着かない。。。寒竹監督、凄すぎる。。。)
そのうえで、今回の物語の面白さを考えてみると、、、
①「消えたこと」への説得力の大きさがもたらす、「取り戻すこと」への共感の深さ
②「同情から応援へ」共感の要素の多様さ
③初「恋」の物語ではなく、「初恋」の物語であるという純度の追求
の3つがポイントなのではないかと考える。
①「消えたこと」への説得力の大きさがもたらす、「取り戻すこと」への共感の深さ
前提として、
「初恋に何がが“消える”と物語になる」
と思う。
今回でいえば消えた大きなものは「記憶」であり、副題として消えたものは「(それぞれの)夢」である。
(なお、川口春奈と目黒蓮のsilentでは、「音」が消えている。)
そうした「消える物語」において、
・満島ひかりが演じる、野口弥英の“薄幸さ”
・佐藤健が演じる、30代の男が背負う“哀愁感”
がばっちりハマり、それぞれが視聴者に対して強く説得力を持たせ、2人の主人公がそれぞれ「消失を抱えている」ことへのリアリティを感じられた。
視聴者に感じさせるリアリティが強いことによって、視聴者の心がマイナスに大きく振れ、
終盤、2人がそれぞれの消えたものを取り戻していく過程において、(当初マイナスに大きく振れた分だけ)視聴者側の心がプラスに大きく振れ、動かされる心の落差が大きくなり、最終的に強い感動を惹起させられたのだと思う。
通常のドラマでも、ヒーローやヒロインにはどん底を経験させるのが常だが、このドラマでは、そうしたどん底が、主役2人の演技によって、他のドラマと一味も二味も違う、リアリティあるどん底とそこからの復活劇を見せられたと感じた。
②「同情から応援へ」共感の要素の多様さ
人の心を動かすドラマには、「共感させる要素」が必ずあるが、
今回のドラマは、初恋のドラマなのに、ドラマの流れの中で主題とする共感の"中身"が変わっているところも興味深いと感じている。
この物語は、途中までは初恋の物語というよりも、「それぞれの主人公が“失う”物語」であり、その時にドラマを貫いている共感の本質は「つらいよね。」という同情に近い共感であったように思う。
記憶を失い、
初恋を失い、
夢を失い、
時には子どもも失う。
そんな、
次々に何かを失っていくことへの、「同情」。
正直、その段階のストーリーでは、初恋がどうなるのか全く読めず、というよりも初恋なのに初恋感はあまりなく、むしろ人情ドラマなのか?と思えるような、ただ悲しく、もどかしくなるドラマだった。
そんな形で、当初失っている2人に対して同情に近い形で共感していたものが、
途中から、「応援に近い共感」に変わっていく。
それぞれが夢を取り戻して可能性を追い求め、
最後には記憶を取り戻して初恋を追い求める。
そんな2人の姿を見て、「がんばれ!」という、「応援」。
なお、最後の舞台が海外(アイスランド)に移るのは、
記憶の奥底に"冷凍"されていた初恋を"溶かす"というだけではなく、「2人が諦めていた当時の夢」(弥英にとってのCAと、晴道にとってのパイロット)も諦めて冷凍された状態から"溶かす"必要があったからこそ、
夢も含めて無限の可能性が広がる象徴としての、「海外」という意味なのだと思う。
(ただ、北海道からアイスランドに変わっても、舞台は変わらず「冬」のままであるところがまた良い)
そんな、初恋ドラマでありながら、多様に共感させてくれることによる心の振れ幅と、最後、初恋も夢も両方とも叶えて両方への「共感」(同情と応援)を回収してしまうところが、このドラマで強く感動させられる理由の1つだと思う。
(また他にも、コロナを始めとして、2人が生きたそれぞれの時代性に強く影響されて物語が移り変わっていく、同時代的な共感もあると思う)
③初「恋」の物語ではなく、「初恋」の物語であるという純度の追求
このドラマは、
恋の物語ではなく、「初恋」の物語である
ところが、やはり強く感動を巻き起こす所以だと思う。
晴道が、記憶を取り戻す前の弥英とのナポリタンデートを断ったのは、なぜなのか。
恐らく、その時に晴道がその場に行ったとしても、弥英と結ばれ直していた気もする。(しないかもしれないが)
ただ、その場合、弥英の記憶が取り戻されぬまま、大人になった2人で恋をするということになるが、それはあくまで2人の初恋を”上書き”した2人の「恋」の話であり、それが成就した結果としての感動は、(初恋が成就した場合と比べて)薄かったように思う。
晴道があそこで弥英を断り、
視聴者にとっては「え、断るんかい。」と“寸止め”を食らったからこそ、最後の場面で初恋を取り戻したことによる「晴道!」という弥英の言葉に、強く心を動かされるのだと思う。
弥英はシンプルに晴道に恋をしたが、
晴道はそれを「初恋」にしたかった。
弥英は「野口さん」ではなくて「弥英」じゃないとダメだし、
晴道は「並木さん」ではなくて「晴道」じゃないとダメだった。
あくまで「初恋」のドラマとしての、初恋を純度高く追求するストイックさが、この物語の感動を深くさせている。
初恋には、時代や人を選ばない、普遍的な力強さがあるのだと思う。
「初恋」は成就せずともあくまで片思いでも成り立つゆえ、誰もが心の奥底に宝物として大事に持て得るものであるからこそ、どんな時代でもどんな人でも、深く共感できる物語になっている。
また、世界観としても、大人の世界に揉まれ、夢を失った2人にとっても、子供のころの純粋な自分を取り戻させてくれる「初恋」がいい処方箋になったのだと思うし、
そういう意味で、純粋さの象徴としての「初恋」が全体の物語構成の中でピシャリとはまっていると思う。
以上、
①「消えたこと」への説得力の大きさがもたらす、「取り戻すこと」への共感の深さ
②「同情から応援へ」共感の要素の多様さ
③初「恋」の物語ではなく、「初恋」の物語であるという純度の追求
が、このドラマが面白く、かつ自分の心に沁みてきたポイントなのではないかと振り返ってみた。
なんだか、凄い作品を見てしまったなあと改めて思う。。。