今年のテーマは、「民主主義」とそれを揺るがす「ナラティブ」、それを裏付ける(?)「多様性」だったように思う。
まず、日本において1945年以降、「民主主義とは、正統(正当)なものだ」という世の中になっている気がしている。
しかし、それはだれが決めたのか??
民主主義の根幹にあるのは国会を中心とする議会政治だが、国会の代表を選ぶ選挙について、2021年に新たな動きがあった。
国勢調査に基づく選挙区の1票の格差改革だ。
数年前から議論されていた「10増10減」の政策について、細田衆院議長から「3増3減がいいのではないか?」という異論が呈される事態になっている。
多数党の自民党から言われたらそれは“多数党が表現する民意”だと言われるところ、SNS等で個人が意見を発信できる時代、そうはなっていない気もする。各所から反論が生じている。
(ただ、上記のテーマは国会改革だからややこしくなっているということだと思うが)
ただ、果たして「民意」とは何なのか。
民主主義の代表選手とされるアメリカでは、毎回恒例のゲリマンダーなる現象も起きている。人口調査が行われ、上下院の選挙区調整が知事の元行われるアメリカでは、知事の所属政党に有利な選挙区調整が試みられるのが毎回のあたりまえらしい。
https://www.newsweekjapan.jp/watase/2021/10/2022.php
さらに、人種間等の対立が先鋭化している中で、投票権をどう定義するのか?という闘争が起こってもいる。テキサス州では、投票規制強化法が焦点にあたり、リベラルな市民をどう“投票させない”のかということに焦点が当たっている。
そんな民主主義を問われている中、新たに就任した岸田首相は、中間層の民主主義を掲げている。
岸田総理は「健全な民主主義の中核である中間層」という概念を掲げているが、それはギリシアのアリストテレスの考えに通ずるものであった。
アリストテレスによれば、ほどほどの経済基盤を持ち、安定した人生を送る中間層は、妬むことも蔑むこともせず、政治に臆することもない一方で過大な野心も持たず、党派的構想からも比較的自由にふるまう。富者は傲慢さや蔑みを、貧者は卑屈さや妬みを有し、この二極に引き裂かれた国家は安定せず長くは続かないため、両極を抑える中間層の厚さが必要だとのこと。
(政治季評)岸田氏とアリストテレス 「中間層」にみた民主主義 豊永郁子:朝日新聞デジタル
そんな民主主義は、国際社会の中で主要な軸になりつつある。
「民主主義サミット」始まる バイデン大統領のねらいは? | 米 バイデン大統領 | NHKニュース
民主主義の概念で国際社会に新たな軸を突き付けているバイデン政権に対して、「民主主義」というあり方自体に正統性を突き付けるのが「ナラティブ」という概念だ。
中国とアメリカの覇権争いが激化している中で、アメリカ側の正統性に注目が集まりがちだが、中国とロシアの“ナラティブ”にも注目する必要がある。ナラティブとは、“正統性を裏付ける歴史的ストーリー”として仮に定義するとする。
中国でいえば、中国共産党は、アヘン戦争後の列強の侵略の歴史を踏まえ、「世界第2の経済大国」という中国人の心に響く“ナラティブ”を呈示することで自らの正統性を保っている。
この記事が呈示しているのは、「民主主義の西側諸国は中国人の心に響くナラティブを発信できているのか?」ということだ。中国側から見たら、西側諸国の発信は上から目線の押し付けと感じる人も少なくないのでは?ということだ。
ロシアも同様のナラティブを持っている。
ロシアとウクライナの抗争のニュースを見ると、ロシアが過度に東欧の緊張を高めているように思えるが、実際の言い分は異なるような気がしている。
ロシアとしては、ウクライナがNATOに加盟すること自体、東西ドイツの統一当時にアメリカと約束したことと違っている。
いまさら聞けない、ウクライナ国境にロシア軍を大集結させる「プーチンの本当の狙い」(北野 幸伯) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)
ちょうど西側(アメリカ側)と、東側(乱暴だが中国とロシアなどアメリカに敵対する側)の”ナラティブ”の争いがぶつかったのが2021年という時代だった。お互いがお互いのストーリーを掲げて、お互いがぶつかり合うシチュエーションが生じている時代。
どちらが”正しい”のかとは一概に言い切れない状況。まさに国際社会のカオスともいえる状況だと思う。どこに正統性があるのかは、誰もわからない状況。
ただ、そんなカオスな”正統性”を考えるうえで、2021年に話題になった「多様性」という概念も外すことはできない。
東京オリンピックの年である今年、組織委員会における様々なニュースを通じて、結果的に世の中に多様性とは何かという概念を突き付けられることとなった。
クリエイティブディレクターの佐々木宏氏の辞任騒動。
「ブタ」侮辱報道の五輪演出・佐々木氏が辞任見通し - 東京オリンピック2020 : 日刊スポーツ
開閉会式のディレクターの小林賢太郎氏の解任騒動。
開閉会式担当 小林賢太郎氏解任 ユダヤ系団体 過去コント非難 | オリンピック・パラリンピック 大会運営 | NHKニュース
正義の名のもとに糾弾することはたやすいけれど、どこまでを許容するのか?ということを突き付けられた出来事だったように思う。
そんな時代の中、“キャンセルカルチャー”とはまさに言いえている概念だと思う。
キャンセルカルチャーとは、Wikipediaの定義を借りれば「主に著名人を対象に過去の言動を告発し、それに批判が殺到することで、職や社会的地位を失わしめる社会現象や社会運動」とのこと。
日経新聞の指摘によれば、アメリカでは過去の自分の言動に対するリスクの回避のため、自分を何らかの“被害者”とみなしたがる傾向が出てきたとのことである。
過去の言動で失脚 「キャンセルカルチャー」日本にも: 日本経済新聞
そんなキャンセルカルチャーの提起に対してそもそも前提として、オリンピックとパラリンピックがなぜ別々なのか?という指摘に対して、誰も明確な答えを持っていない。
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乙武洋匡氏が「パラリンピックをなくしたい」と語る理由 五輪の「おまけの大会」脱却も込めた提言: J-CAST ニュース【全文表示】
(YouTube動画ではなくWEB記事を転載)
確かに、乙武氏が指摘している通り、例えばラケットかグラブか車いすか?という、同じく道具を使うスポーツ同士なのに対して、“障碍”という概念があるがゆえにオリパラが別々の存在になっていることは違和感がある。
オリンピックがスポーツ会社にとって技術のお披露目会になっているのと同様、パラリンピックも障碍者用のスポーツ技術のお披露目会になっているようで、そうした意味で、将来的には“健常者”を“障碍者”が抜く日が来る可能性もある。
その時、オリとパラを分ける”正統性”はあるのかどうか。
ただ、オリンピックとは元々多様性を提起しているイベントであるという指摘もあれば、そもそもオリンピックは多様性と相性が悪いという指摘もある。
(論壇時評)五輪と多様性 「特権もつ多数派」の自覚を 東京大学大学院教授・林香里:朝日新聞デジタル
IOC会長はそもそも初代より130年間で9人のみ、全員白人。内訳は1人の白人を除いて全員は白人だ。
そうした様々な矛盾に対して、“多様性”とはそもそも何なのか。
朝井リョウ著の「正欲」が指摘しているのは、
「多様性の時代。自分に正直に生きよう。そう言えるのは、本当の自分を明かしたところで、排除されない人たちだけだ。」
「多様性」と「排除」。
その2つの言葉はやけにセットになっている概念のような気がしている。
それを裏付けるように、性風俗業者が持続化給付金の支給対象にならない事態も生じていた。
性風俗、なぜいつも除外?理由をはっきり答えない国 「納税」事業者が正面から問う裁判へ | 47NEWS
また、別姓婚も、なかなか認められる気配がない。最高裁判決を経ても、あくまで既存の秩序を壊すような判決は出なかった。
(時時刻刻)別姓、踏み込まぬ司法 多数意見2ページ、15年判決の5分の1:朝日新聞デジタル
個人的には、多様性という概念を錦の御旗に、あくまでマイノリティとなって“犠牲”となる誰かを前提とした社会であるならば、多様性という概念はクソくらえだと思う。
ただ、多様性とは“曖昧”であるがゆえに便利な概念であり、なかなか難しい広さを持っているなと思う。
さて、上記、ナラティブと民主主義ということについて考えを巡らせてきたが、宇野重規東大教授は、
「民主主義は振り子のようなもの」と指摘している。
諦めの感覚、それが最大の敵 脅かされる民主主義の理念:朝日新聞デジタル
その意図は、多様な意見が示され続けるほど、修正が効くということである。
その時々は正しいことに導かれずとも、“正しい”方向に進めようとするやり取り自体が、振り子として機能し、中長期的に“良い”方向へ導かれるしかないような気がしている。
よく聞いているコテンラジオの深井さんも、
「歴史の流れは抗いようがないから、その流れに従うしかない」
と喝破していた気がします。(なんとなくこんな感じだった気が)
ということで、今年は流れをうまくとらえて頑張ります!
よろしくお願いします!