三男日記

愛知県蒲郡市出身、今東京におります三男です。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

8月論壇時評その①「東京五輪のレガシーとは。」

朝日新聞には毎月「論壇時評」という連載があります。論壇委員が評論をピックして、時代を評価する月一のものなんですが、それが面白いんです。そのため、僕自身、それをまねして、ここ最近読んだもので、同様のことをやってみるという壮大な挑戦をやってみようと思います。

 

論壇時評をまねているので、口調は偉そうな口調です。笑

 

(参考)

連載「論壇時評」記事一覧:朝日新聞デジタル

 

※8月と銘打ってますが、6~8月を包含してます。

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まず、ここ最近の動きを語る上で、「五輪」は外すことができないが、その中でも、パラリンピックも佳境に入った中で、東京五輪の“レガシー”とは何か、考えてみたい。

 

日経新聞によれば、レガシー論は、2003年のオリンピック憲章から導入されているようで、「大会の将来性のある遺産を残すことを、開催国や開催都市に対して奨励する手段を講じる」ことがIOCの役割として重視されているようだ。

コロナ下の東京五輪・パラ、レガシーの行方は: 日本経済新聞

 

そんなレガシーを考えていくうえで欠かせないのが、まずこの東京五輪が何を目標に行われたのか、ということだ。

 

吉見俊哉によれば、東京五輪は“お祭りドクトリン”の一種として行われたと喝破する。都市開発に巨額の予算を投じる口実として、10年に1度、日本では五輪が利用されてきており、五輪をお祭りとして一気に物事を進めたのだと。

(インタビュー)東京五輪、国家の思惑 東京大学大学院情報学環教授・吉見俊哉さん:朝日新聞デジタル

 

仮に吉見の論が一定正しいとして考えてみると、実態としての東京五輪は空虚ではなかったか?という疑問が生ずる。

 

日経によれば、この大会は最初から最後まで、1964年の東京五輪の“幻想”から抜け出せなかった大会だった。過去の思い出を嬉々として語る菅首相に顕著に表れている通り、1964の再来を望む“呪縛”が、日本人に希望を持たせた。

続「1964」の夢と現実: 日本経済新聞

 

ただ、そんな1964年の五輪でさえ、終わった後に空虚感を伴っていたようだ。

 

日経によれば、三島由紀夫はこう指摘している。

「ここ2、3年、日本の国家目標がオリンピックだとすれば、それはあまりにもわびしすぎよう。さて――。そう、さて、オリンピックは終わった。さて――。そう、さて、これからの日本はどこへ、どんなふうに動くのだろうか」

五輪と政治の協奏曲 祭りの後に来るものは: 日本経済新聞

 

 

さて、大義が不明瞭なまま始まり、不明瞭なまま終わってしまった東京五輪が何かを後世に残したものを曖昧ながら挙げるとすると、「人格」と「多様性」は、少なくとも挙げられるのではないかと思っている。

 

 

「人格」でいうと例えば、東京五輪は、スポーツ選手の人しての“人格性”にフォーカスを当てた大会だったといえる。

 

日経によれば、東京五輪メンタルヘルスの問題に焦点を当てたと指摘する。実際、トップ選手の49%が睡眠障害に直面、33.6%が不安や「うつ」の症状を抱えているという。

 

アメリカの体操女子の選手、シモーン・バイルスは、「私たちはただアスリートでエンターテインメント(の一部)というだけではなく、一人の人間。色々な感情もあるし、皆さんが見ていないところでもがいていることも知ってほしい。」と述べている。

選手の心身負担、問われた五輪: 日本経済新聞

 

確かに、多くの人はスポーツを“コンテンツ”としてとらえ、スポーツ選手の活躍を“消費”する。五輪はその消費活動の頂点だが、そうした消費としての側面が立ちすぎていて、スポーツ選手を一人の人間としてとらえる視点が捨象されすぎていたように感じる。

 

為末大氏も、五輪後の自分自身の人生をしっかり見つめ、幸せを追求することが大事なのだと、先輩としての視点から温かく語りかけている。

オリンピックを終えたアスリートの方へ|Dai Tamesue 為末大 (株)Deportare Partners代表|note

 

今回の東京五輪が投げかけたものとは、スポーツ選手も一人の人間としてとらえ、社会も温かい目で見守っていくことの重要性ではないだろうか。

 

 

また、次なるレガシーの視点として、「多様性」の視点は極めて重要だ。

 

五輪は多様性の象徴として語られることが多くなっているが、林香里によれば、元来オリンピックと多様性は、相性が悪い。

 

その根拠として、IOC会長は初代から130年で9人いたうちの全員が白人で、1人のアメリカ人を除いて全員がヨーロッパ人であることが指摘される。そうした点も踏まえつつ、五輪というシステムは、21世紀に漂流する19世紀の遺物であり、驕奢の上に成り立ち、地政学的に偏り、汚職や不正が蔓延する改革不能の組織だと。

(論壇時評)五輪と多様性 「特権もつ多数派」の自覚を 東京大学大学院教授・林香里:朝日新聞デジタル

 

ただ、そんな五輪だが、パラリンピックとの共催が実現されている今、かなり“多様性”に近づいているとはいえなくもない気がする。しかしながら乙武洋匡氏は、五輪とパラリンピックの関係について、別の視点を提起する。

 

乙武氏の指摘は、「パラリンピックはなくすべきであり、パラリンピックとオリンピックは一つになればいい」というものだ。

 

例えば、柔道は男女・体重別に分かれているのになぜ障碍だけが別部門なのか?ということである。また、スケボーや自転車などは五輪なのに、同じ道具であるはずの車いすや義足はなぜパラリンピックなのか?と。

youtu.be

 

“共生社会”と掲げられているものの、本質として一種の“区別”が垣間見得ている現状は、なかなか“多様性が肯定されている社会”とは言いづらいのではないだろうか。

 

本来の多様性とは、違うものを“ちゃんと区別して共生すること”ではなく、違うものだとしても“共通点を探して同じくして生きること”を目指して努力することだと思う。区別の観点が入った途端、あてはまる・あてはまらないという“排斥”の視点が入ってしまう気がしている。

 

そんな教訓を教えてくれたのは、多様性を掲げる東京五輪に至るまでのドメスティックなドタバタ劇である。

 

開会式チームの佐々木宏氏のLINE上での「ブタ」発言や、ホロコースト揶揄、過去の障碍者いじめなど、様々な問題が噴出し、それぞれに対して社会的な糾弾が世の中を席捲した。ホロコースト揶揄や障碍者いじめに関しては、現在ではなく過去の行いであり、そうしたものを根拠に批判することには、賛否が一定分かれる。

 

ただ、日経によれば、過去の言動を否定する、いわゆる「キャンセルカルチャー」の文化が浸透すればするほど、例えばアメリカでは、若者が自分を何らかの被害者だとみなしたがり、キャンセルカルチャーから免れようとする傾向が強まっているらしい。

過去の言動、問われる倫理: 日本経済新聞

 

過去から変わった“今の価値観”を社会としてきちんと履行していくことは重要でありつつも、過去のことや、佐々木氏のような打合せ用の発言に対してすら社会的にNOを突き付けていくことは、皮肉にも社会全体の萎縮を引き起こし、結果的に本来目指すべき多様性とは逆行してしまうことになりはしないだろうか。

 

乙武氏の指摘と、キャンセルカルチャーからいえることは、東京五輪が投げかけた”多様性”は、まだまだ表層的な多様性に過ぎないということであり、そうした多様性の真実を暴露してくれたこと自体が、東京五輪のレガシーといえるのだと思う。

 

 

以上、東京五輪のレガシーとして「人格」と「多様性」に焦点を当ててみたが、東京五輪が投げかけたものとは、一体何だったのか。

 

1964年に幻想を抱いている今のように、将来、2020年に幻想を抱かれるときに備えて、しっかり考えることが重要だと感じた。