どうやら、世の中の風向きがなんとなく変わってきているように思う。
成長や頑張ること一辺倒ではなく、そうではない生き方もあるよね、と少しずつ浸透しつつある。
山内三咲さんは、
ところが「努力したくない人」という存在は、成功者の存在意義を覆す存在だ。
お金がなくても、モテなくても、孤立しても、蔑まれても、それでも「努力したくない」と言い切れる人は、社会的成功者のことを羨んだりしない。
それどころか、成功者を成功者とすら思わないだろう。
もしこういう人がいたら、むしろ貴重だ。
社会をパラダイムシフトさせる可能性すらあると思う。
社会が定義する「成功」や「不幸」の定義を根本から覆すからだ。
と述べ、努力しないという生き方の多様性も社会は受容していくべきと指摘する。
「努力したくない人」は、社会をパラダイムシフトするかもしれない|山内三咲|note
ただ、佐々木俊尚氏はそうした文脈に対して、自分の成長への期待と社会の成長への期待は異なるのではないか?と喝破する。
自分が成長を期待しないのと、社会が成長を諦めるのは違うって話 | 佐々木俊尚「毎朝の思考」/ Voicy - 音声プラットフォーム
社会の成長は、結果的に貧しい人も含めて救っていくことにつながるので、個人の成長をあきらめていいからといって、社会の成長も結果的にあきらめていいとは限らないと述べる。
そうした個人の“努力観”の多様さが社会的に広まりつつある中で、機会論的にとらえているのが、この論考だ。
親ガチャ社会を変えるには 「頑張れば成功できる」は呪いの言葉だ:朝日新聞デジタル
中卒から司法試験に合格した経歴を持つ東京都の五十嵐都議は、「『頑張れば成功できる』は呪いの言葉」だと主張する。
貧困を生んでいるのは政治や社会なのに、個人に責任を押し付けてしまっている言葉だと。なぜ頑張れないのか?なぜ勉強していい大学に行かないのか?を上から目線で個人に努力を強いるのではなく、政治としては本来恵まれない人のために環境を整えるべきだと述べる。
親ガチャ論もあったが、単に“頑張りなさい”で済ませない社会が重要なのだと思うし、またどんなマイノリティでも受け入れていく多様性をしっかりと共有していくことがこれから必要だと僕は考える。
そんな時流の中、上記のようなマイノリティ論は、直近では様相が変わってきていると、研究者の三牧氏は主張する。
現代の民主主義の国では、社会の『マジョリティー(多数派)』だとされてきた人たちが抱える『マイノリティー(少数派)意識』が複雑な政治状況を生み出しています。(中略)例えば、米国では格差が広がる中で、男性や白人など、かつてはマジョリティーとされてきたグループが『自分たちも被害者だ』という意識から、女性や人種的マイノリティーの苦境を理解しようとしない傾向にあります。トランプ政権を支持した白人右派がよい例です
とアメリカの例を引用しながら、
これは、日本にもいえることではないでしょうか。自民党支持層であっても、自分たちこそ不当に抑圧されているという被害者意識を抱えている人たちはいます。『一億総少数派』の時代、といえるかもしれません。
と日本においても、自らを被害者ととらえ、救ってもらう対象の存在であると考える人が増えているのではないかと指摘する。
僕はそういう意味では、コロナ禍は日本において隠れていた“マイノリティ”の存在を可視化したように思っている。
朝日新聞は、失業給付⇒雇用調整助成金⇒特例貸付⇒・・・⇒生活保護といった公助の安全網が、穴だらけなのではないかと述べる。コロナ禍を経て、そうした救えていない層の現実があぶりだされた格好だ。
(危機の時代に 2021衆院選:1)安全網に穴、不安と不信と 休業手当・雇用保険「当てにならず」:朝日新聞デジタル
また、コロナ禍がなかったら想像していなかったであろう、飲食店がいわば“弱者”になってしまうという状況も生じている。
コロナ禍、4.5万の飲食閉店 協力金で支えきれず: 日本経済新聞
飲食店に関しては、本来飲食店への規制は必要であったのかどうかが今問われなおされている。
【検証コロナ禍】人流抑制は本当に必要か?専門家は感染減少の要因を説明できていない(楊井人文) - 個人 - Yahoo!ニュース
専門家会議の結論に飲まれ、感情的にバッシングしてしまっただけではなかっただろうか。本来、そうした規制というものは、ある種トレードオフの観点から考えられるべきものだが、飲食店規制の場合は、それによるデメリットやそれによる救済を構築するより先に規制が出来上がってしまったのではないか。
小林慶一郎慶大教授は、コロナ政策は、「コロナ医療」(感染者数の増加)と「一般医療」と「経済活動」(この場合、制限したときのデメリットなので、「自殺者の増加」)をそれぞれ天秤にかけ、そのうえで何を優先して何を犠牲にするかを見極めた政策を実施すべきだと述べる。
医師系や旅行業界など政治的に”マジョリティ”といえる業界ではなく、政治的に”マイノリティ”といえる飲食店に対しての規制は”らくらくと”できるゆえ、そこまでトレードオフで考えられていなかったのだろうか。
ある意味空気に流されて意思決定がされていたまたは、飲食店だからいいか、という考え方で進んでしまっていたように思える。
本来は”マイノリティに対してこそ、また声を上げづらい相手に対してこそ、慎重に考えを進めて、本当に効果のあることかどうかを見極めて政策を実施すべきだったように思う。