小さいころに国語の授業で、「平和」の反対は「戦争」だと習いました。
テスト上は、それで納得していましたが、それを習ったときから、なんか違和感があったんです。
平和、は状態を指す言葉なのに対して、戦争、行動を指す言葉です。本当にそうなのかな・・・とずっと心の奥底で思っていたんですね。
でも、その当時には、それが単なる言葉の性質の問題なのか、それとも意味の問題なのか、モヤモヤしていました。
年を重ねるにつれ、その違和感は、意味寄りにもなっていきました。
日本が太平洋戦争を始めたのは、あくまで「自衛」のためだったり、アメリカがアフガニスタンやイラク戦争を始めたのも、「自衛」のため。
戦争をしたいために戦争をするのではなく、平和を守るために戦争をしています。
あれ、戦争の反対は平和、という単純な対立構造ではなく、平和のための戦争、も存在している・・・?
というモヤモヤを抱えていた中で、最近、改めて「平和」「戦争」問題について、考えさせられたことがあります。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」を見ているのですが、興味深いシーンがありました。
明智光秀は、元々戦は嫌いで、戦を避けるために様々な大名と交渉し、掛け合ってきました。
しかし、室町幕府や朝廷は権威を失っており、なかなか戦の世が終わらない。そんな時、織田信長の台頭に直面し、信長の力を見せつけられます。
そして、光秀は、悟ります。
信長なら、世を平和に治められるのではないか?
ただ、そうなるためには、戦を避けるのではなく、まずは戦をしなければならないのではないか?
真の平和は、戦のあとにしか訪れないのではないか?
と。
結果として、光秀は信長とともに戦う道を選びました。
という過程における、光秀の葛藤は、まさに「平和」「戦争」の対立構造に対して疑問を呈するものだと感じました。
僕のモヤモヤの正体は、こういうところにあったのかもしれません。
小さいころの教えは、「平和の反対は戦争だよ、だから戦争は絶対にダメなんだ」という教えの文脈においてでした。
おそらくそれは、戦後日本が戦争の反省を踏まえて、二度と繰り返さない、という政治的意図の表れでもあったのだと思います。とりわけ、教師の組合など含めた教育系では反戦の傾向が強いと聞きますし、そういうことだったのだと思います。(たぶん)
しかしながら、世の中は単純ではなく、平和を掲げて戦争をする、ということが平気で起こりえます。
今でさえ、中東で戦争(紛争)が起こっているのは、それぞれの国の平和のためです。イスラエルも、自国の平和のためにイランに戦争をしかけたりしています。
そうなったとき、日本の教育の通り、平和⇔戦争の思考では乗り越えられないと思うのです。
日本が戦争に負けて、戦争を二度と繰り返さないんだ、という決意は尊いものですが、世界の現実には対応しきれていない気がします。
明智光秀が考えた葛藤のようなモヤモヤに立ち向かってこそ、真の平和(戦争がない状態)は実現されると考えます。
だから、色んな意味で、「平和」の反対は「戦争」ではない、そうであるべきではないと思いました。
日本語としても変ですしね!せめて、「戦争状態」かと。
また、屁理屈言えば、戦争していても平和なこともあるわけですし。。。
平和の反対は、なんなんでしょうね、、、。争い、でもないと思います。
敵対とか?憎悪とか?無秩序とか??
いや、、、
平和の反対は、「平和じゃない」とかですかね?笑