三男日記

愛知県蒲郡市出身、今東京におります三男です。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

国語で習う「平和⇔戦争」は真か?

さいころに国語の授業で、「平和」の反対は「戦争」だと習いました。

 

テスト上は、それで納得していましたが、それを習ったときから、なんか違和感があったんです。

 

平和、は状態を指す言葉なのに対して、戦争、行動を指す言葉です。本当にそうなのかな・・・とずっと心の奥底で思っていたんですね。

 

でも、その当時には、それが単なる言葉の性質の問題なのか、それとも意味の問題なのか、モヤモヤしていました。

 

年を重ねるにつれ、その違和感は、意味寄りにもなっていきました。

 

日本が太平洋戦争を始めたのは、あくまで「自衛」のためだったり、アメリカがアフガニスタンイラク戦争を始めたのも、「自衛」のため。

 

戦争をしたいために戦争をするのではなく、平和を守るために戦争をしています。

 

あれ、戦争の反対は平和、という単純な対立構造ではなく、平和のための戦争、も存在している・・・?

 

というモヤモヤを抱えていた中で、最近、改めて「平和」「戦争」問題について、考えさせられたことがあります。

 

NHK大河ドラマ麒麟がくる」を見ているのですが、興味深いシーンがありました。

 

明智光秀は、元々戦は嫌いで、戦を避けるために様々な大名と交渉し、掛け合ってきました。

 

しかし、室町幕府や朝廷は権威を失っており、なかなか戦の世が終わらない。そんな時、織田信長の台頭に直面し、信長の力を見せつけられます。

 

そして、光秀は、悟ります。

 

信長なら、世を平和に治められるのではないか?

ただ、そうなるためには、戦を避けるのではなく、まずは戦をしなければならないのではないか?

真の平和は、戦のあとにしか訪れないのではないか?

と。

 

結果として、光秀は信長とともに戦う道を選びました。

 

という過程における、光秀の葛藤は、まさに「平和」「戦争」の対立構造に対して疑問を呈するものだと感じました。

 

 

僕のモヤモヤの正体は、こういうところにあったのかもしれません。

 

さいころの教えは、「平和の反対は戦争だよ、だから戦争は絶対にダメなんだ」という教えの文脈においてでした。

 

おそらくそれは、戦後日本が戦争の反省を踏まえて、二度と繰り返さない、という政治的意図の表れでもあったのだと思います。とりわけ、教師の組合など含めた教育系では反戦の傾向が強いと聞きますし、そういうことだったのだと思います。(たぶん)

 

しかしながら、世の中は単純ではなく、平和を掲げて戦争をする、ということが平気で起こりえます。

 

今でさえ、中東で戦争(紛争)が起こっているのは、それぞれの国の平和のためです。イスラエルも、自国の平和のためにイランに戦争をしかけたりしています。

 

 

そうなったとき、日本の教育の通り、平和⇔戦争の思考では乗り越えられないと思うのです。

 

日本が戦争に負けて、戦争を二度と繰り返さないんだ、という決意は尊いものですが、世界の現実には対応しきれていない気がします。

 

明智光秀が考えた葛藤のようなモヤモヤに立ち向かってこそ、真の平和(戦争がない状態)は実現されると考えます。

 

 

だから、色んな意味で、「平和」の反対は「戦争」ではない、そうであるべきではないと思いました。

 

日本語としても変ですしね!せめて、「戦争状態」かと。

また、屁理屈言えば、戦争していても平和なこともあるわけですし。。。

 

 

平和の反対は、なんなんでしょうね、、、。争い、でもないと思います。

 

敵対とか?憎悪とか?無秩序とか??

 

 

 

いや、、、

平和の反対は、「平和じゃない」とかですかね?笑