大阪地裁で、大飯原発の3号機4号機の再稼働差し止めの判決が出ました。
正確には、原子力規制委員会の設置許可処分の取り消しを命ぜられました。
今までも全国でたくさんの原発訴訟が起こされていますが、最終的にほとんどは電力会社側が勝訴しています。まあ、勝訴して原発が電力会社の意のままに動かされ続けた結果が福島原発事故に結び付いてしまったわけですが。
まあ、これ、原発訴訟を住民が起こして、司法の力を頼っていくことは大事なことだとは思いつつも、僕個人的には、冷めた目で見てしまいます。
なぜなら、司法機関もあくまで一政府の機関であって、日本の司法は機関として国民の方を向いていないからです。
どういうことか。
(ちなみに今回は、原発の賛否には踏み込みません。あくまで司法制度論の話です)
これ、原発訴訟で住民側(原告側)が勝ってるのって、基本的には地方裁判所レベルで、時々高裁レベルで原告勝訴判決が出たりはします。
ただ、最終的に原告が勝訴した例は、一例もないんですよね。巧妙に最後は電力会社が勝つように”できている”。
こんな記事があります。
この記事は、原発訴訟で電力会社にノーを突き付けた裁判官は、「司法行政」の経験がない、ということに触れています。
「司法行政」とは、裁判の現場ではなく、最高裁判所の事務総局という裁判所を統括する組織での仕事、ということです。裁判行政、ということですかね。
「法服の王国」という、黒木亮さんが書かれた、最高裁判所をテーマにした傑作小説があります。
法服の王国――小説裁判官(上) (岩波現代文庫) | 黒木 亮 |本 | 通販 | Amazon
法服の王国で描かれている通り、裁判官は、最高裁事務総局を中心とする人事によって強く統制されています。裁判の方向性についても、裁判官は研修会等を通して一定の方向へ誘導されているのが実態なようです。
その結果として、原発訴訟が最終的に住民勝訴の方にうまくいかないようにできているメカニズムが見えてきます。
イメージはこんな感じです。
裁判の方向性を決めるからと言って、その言うことを聞かない裁判官も、数が多ければ何人かは出てきます。そうした結果が、住民勝訴の裁判です。
ですが、仮にそういう結果になったとしても最高裁事務総局は、住民勝訴を防ぐために、次の高裁では、裁判長に信頼のおける人間を送り込み、判決を握りつぶします。
(そもそも高裁レベルにはある程度人事的にも、中央に忠実な人が配置されているとも言えますが)
住民勝訴の判決を出した裁判官は、そのまま左遷されるか、一生中央に戻れないか、そうした政治判決に影響のない裁判所(家庭裁判所など)に出されてしまいます。露骨に人事権で見せしめをするのが今の司法行政です。
それは、原発訴訟に限った話ではなく、そもそも行政に対峙しようという気概が司法にはない、ということなのです。
日米安全保障条約や自衛隊関連の裁判でも、もちろん国が勝訴しています。
とりわけ自衛隊の合憲性が争点となった長沼ナイキ事件は、札幌地裁所長が裁判長に圧力を加えたり、最終的に住民勝訴(違憲判決)を下した福島裁判長は、その後地方に回され、一回も裁判長を務めることもなく退官することになったりとか、露骨です。
(法服の王国ではそのあたりもノンフィクションっぽく生々しく描かれます)
参考:
しかし、なぜ司法が行政に対して弱腰になっているのか。三権分立で独立しているはずではないのか。
行政に対して保守的になってしまう要因として、
法服の王国で描かれていたのは、
裁判所が組織として大きくなってくると、予算がかかってくるが、予算がかかってくるようになると、財務省と折衝しないといけなくなってしまいます。そうなったとき、財務省や政府にたてつくと、裁判所としても予算を付けてもらうたちばであるわけですから、厳しくなってしまう。
その緊張関係の結果として、裁判官として出世する人は行政交渉ができる人がであり、そうした人は行政寄りの視点ですので、行政とは敵対しない“官僚寄り”の視点になるようです。
裁判所も行政組織の一部として、既得権益の構造に組み込まれてしまっています。
(ちょっと違うかもですが、最高裁の判事も、なぜか出身母体で枠が決まっていたりしますよね。検事枠何人、日弁連推薦枠何人、学者枠何人、官僚枠何人、みたいな。笑)
裁判所で出世すると、例えば最高裁判所事務総局の局付として司法行政を担うわけですが、そうした人たちは、裁判の判決を実際に書くというよりは、“司法行政”をしていることが主で、裁判がどうあるべき、こういう事例ではどういう判決を下すべき、といったことを考えている存在です。
だからこそ、住民側の視点に寄り添うというよりは、行政側の視点に立って判断がなされることが多くなってしまうんです。
しかし、すべての裁判官がそうしたことをしたいわけでもなく、現場でいたい人ももちろん多い(また理想が高い裁判官も多い)なかで、なぜ裁判所という組織が右に倣えという組織になってしまうのでしょうか。
それの記述も法服の王国で描かれていましたが、
裁判を書くことは、めちゃくちゃ大変だそうで、年を取ってくると、カラダに応えてくるそうです。
だからみんな年を取ったら行政の方に回って、ゆっくり過ごしたい。ですが、地方の裁判所にずっといると、一人で案件をたくさん抱えて、裁判を書き続けなければなりません。それを避けるために、また東京・大阪などの都市に戻りたいために、出世を気にする構造になってしまうようです。
という、司法の行政化の構造がある中で、原発訴訟の冒頭の話に戻りますが、
今回の判決も、別に歴史上意味があるわけではなく、どうせ高裁で逆転敗訴になるんだろうな、、、と若干あきらめの気持ちで見ている、というのが正直なところです。
もちろん、わずかな勝機や、勝つことで議論を巻き起こそうと原発訴訟に携わっている皆さんには敬意を表します。すごいことだと思います。
ですが、今回の裁判の判決を出した森鍵一裁判長が、不当な扱いを受けないように監視すべきです。
今回は、あくまで制度論の話であり、原発の賛否などにふみこんでいるわけではありませんが、以前こんな記事を書いているので、左寄りっぽく思われるかもな~~と思いつつ。
ただ、日本の司法は行政と戦うときには、あまり助けてくれないようです。