三男日記

愛知県蒲郡市出身、今東京におります三男です。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

今年も8月15日は、いつの間にか終わっていた。

毎年この季節はお盆休みの真っ只中、帰省している人も多く、実家で涼みながら甲子園でも見ている時期だと思う。

 


1945年当時の人たちは、それどころじゃなかったんだろうな。。。

 

空襲で建物は焼け果て、

家族も散り散りとなり、

神だと信じていた天皇陛下が鬼畜米英に降伏する。

 

もしくはそんな感情を抱けるだけマシだったのかもしれない。。。

 

爆弾で亡くなった方、戦地に出て家族や国のことを思いながら戦死された方は、戦後の平和な日本を見る事なく、今も眠られている。

 


テレビの番組欄の片隅で戦争特集は取り上げられているものの、
過去の戦争について家族で話したり、家族で真剣に考えたりといった機会は僕にもなかったし、多くの家庭でもないと思う。

 

 

 

8月15日。

 


歴史上、日本という国家が大きく変わった日だと思う。

 

と同時に、国家の国民に対する立場が大きく変わった瞬間だと思う。

 


戦え!から、負けました!へ、変わった。

玉砕しろ!から、降伏しろ!へ、変わった。

天皇陛下万歳!から、マッカーサー元帥万歳!

へ変わった。

 


日本国民が信じてきたものが大きく変わった瞬間が、8月15日だと思う。

 


でも、

今の日本において、この日は、国民的イベントに程遠い日だと思う。

 


生まれて以来、別にこの日に特別のレクチャーを受けるわけでもない。

学校で教わるわけでもない。(夏休みだから。)

ましてや、メディアでたくさん目にするわけでもない。

 


毎年、なんとな〜く過ぎていく1日が、8月15日という日なのだ。

 

確かに、この日になったとしても、イメージがわかない気がする。

 


負けた日?

降伏した日?

ポツダム宣言を受諾した日?

 


それより、

空襲の日とか、原爆投下の日とかの方がイメージが湧く。

 


でも、この日に国家が負けたなんて、想像がつかない。

というか、国家が負けたってなんだ!

 

なんて抽象的なんだ!!

 

 


今もある日本が、

8月15日に何が変わったのか?

 

 


国家のために戦うことが、敗戦によって否定されてしまった。

 

その一点に尽きるのかなと思う。

 


なぜ戦場なんかに行ったのだ?

なぜ戦争をしたのだ?

 


国家を守ることが国民の犠牲を強いることは当然といえば当然なのだけど、

その犠牲によって得た結果が日本の敗戦だったから、その"反省"として「国家のために犠牲を強いる」という概念が消失してしまった。

 


他国では、多分まだ国家のための犠牲という考え方は当たり前なんだと思う。
朝鮮戦争も、ベトナム戦争も、湾岸戦争アフガニスタン戦争、イラク戦争と、世界では何度も戦争が戦われた。

 


翻って日本では、

自衛隊は無理やり合憲になっているような存在だし、

国旗を掲揚したり国家を歌うことでさえ反対する人がいる始末。

 


祖国のために戦ってくれた人が眠る靖国に参拝するかしないかという議論でも、他国への忖度のために「しない」方が勝ってしまうしょうもない国が日本。

 


敗戦したという事実は、それほどまで重いものなのか?

 

 

 

死んで靖国で会おう。

 
そう旅立った先達たちを、国家として祀らない事は、道義的にに許されるのか?

 
皆万歳で送り出したはずなのに。

 

戦争に負けた瞬間、それは間違っていたことになってしまうのか??

 
靖国参拝問題に至っては、戦犯がそこに合祀されていることが問題なのか?

 
しかしながら、戦犯は戦犯とはいえ、国のために奉仕したことは変わりがない。
兵士は良くて、意思決定層はダメなのか?

 


東京裁判で、戦勝国の裁判によって死刑に処され、いわば戦死したともいえる人たち。

 
日本は独立国として、東京裁判の内容は受諾しているわけだから、彼らの意思決定の中身は認めるべきではないけれども、
彼らが命をかけて国家に殉じたという事実は、十分祈る対象として遜色ないものなのではないだろうか。

 


戦争すること自体が罪なのなら、アメリカ大統領はなぜ罰せられないのか?
東京大空襲も、原爆も投下して、
「戦争を終わらせるため」という正義があればそれでいいのか?

 
日本だって、「自国を守るため」に、戦争をしたはずで、負けたからといって戦争することが非合法な行為だと糾弾されることは、道義的におかしい。「侵略」のためだけに戦争する国なんて存在しない。

 


日本は、1945年の「敗戦」という十字架をいつまでも背負い続けているが、いつまで耐えればよいのか。僕たちは、いつまで謝り続けなければならない??

 


そんなモヤモヤを発信してくれた、
安倍70年談話は、僕は支持したい。

 


内容としてよく批判されるが、
基本的に村山談話を踏襲したものであり、
過去の日本の姿勢を否定した内容ではなく、過去を踏まえたうえでの未来志向の内容になっている。

 

事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 

 

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 

www.kantei.go.jp

 

 

確かに、日本が第二次世界大戦で敗戦した事実は変わらないし、それに対して数多くの命が国内外で失われた事実はとても重い。

 


けれど、今の日本は、
「敗戦」を掲げて、思考停止に陥っているとしか思えない。

 


過去の戦争は間違っていた!などと言うが、
1945年8月15日以前に私たちが大事にしていた「国家のために」という考えのもと国家に殉じたさまざまな人の存在を考えて悩みに悩み抜いたら、そんな簡単な考えにはならないはずだ。

 

 

もちろん、市民の犠牲は尊いし、戦争はダメだ。

だけど、日本の国を守るため、家族を守るために戦ってくれた人がいる事実は忘れてはならないし、戦争とは、時に正義のために戦われるものであり、当時はまだそういう時代だったはずだ。

 


公的な戦没者を祀る施設が千鳥ヶ淵しかなく、それが身元不明者を祀る場でしかないという日本の現状は看過してはならないし、

もっと国家として、国民として戦争の事実に向き合わないといけない。

 


過去にちゃんと向き合うことはつらいし、答えなんてほんとにないことだけど、

東條英機が悪かった

陸軍がのさばった

軍部が暴走した

という短絡的な結論に至って敗戦の事実に目を瞑ることなく、

もっと「日本という国家」、「国体」について、各人が悩み抜くべきだと思う。

 


8月15日は、
日本という国家について、右も左も関係なく、
(国家観について左右分かれてしまうようになった日本は問題だと思うが)、
もっと想いを馳せるべき日なように思う。

 


今年も、コロナと半沢直樹に気を取られていつの間にか8月15日が過ぎ去ってしまった。。。