神社、寺だと、お賽銭箱があります。
お金を投げるアレです。
だいたい、5円を投げませんか?
ご縁があるから、とちなんで5円。
僕も昔親に言われて、5円玉ばかり投げてました。
でも、最近お賽銭箱を前にしたら、
「あれ5円玉を投げる必要なくね?」と思いました。
一応言っておくと、
そもそも僕は宗教自体をあまり信じていなくて、絵馬とかも書く意味もないなと思ってる冷徹な人間でして、
お守りも、小学生の時不意に中身を開けてしまって以来、気休めだなと思うようになりました。
おみくじも占いも、所詮確率論に近い話なのかなと。
その信念に立ち返って
改めて「5円玉を投げる行為」を考えてみると、よくわからないわけです。
ご縁を‥‥‥と言っても、なぜ5円玉なのか。
発端は言いがかりですよね。多分。
ではなぜ5円玉を、という言いがかりが成立したのか。
僕が考える仮説は、賽銭をもらう側の陰謀説です。
賽銭って、正直なところ、実質はただの寄付です。多ければ多いほど、まるまる受け取る側の利益になります。
そこにできるだけ多く投げてほしい。高い硬貨を投げてほしい。
でも、賽銭はお気持ちだから、高い方が願いが叶う、とか堂々と言えないし、多めでお願いします!とも言えない。
賽銭なんて、投げる方からすれば、正直1円玉でもなんでもいいわけです。1円投げたか5円投げたかで、「賽銭を投げて願い事をした」という事実は変わらないわけですし。
でも、50円玉、100円玉を投げよう!と言ったとしても、投げる側には金額的に抵抗がありそうだし、かといって10円玉で、っていうのも、意外と10円って高くて言いづらい。
そこでちょうどいいのが5円玉。
投げやすいちょうどの金額をついています。
1円の一個上、10円の下。10円って割とよく使うし、10枚で100円だから意外と価値を見出しやすいんだけど、5円玉はあまり使わないのもあって軽めに出しやすい。
でも単に5円玉で!と言うだけで投げてもらうのって難しいから、「ご縁があるから‥‥‥」というこじつけで5円玉を投げてもらうと、それだけで1円玉を投げてもらうより5倍の利益になります。
5円玉を投げる行為は、騙されてるんです。
多分。
(すみません、意地が悪すぎますね。笑)
いや、でもこれはそもそも僕が神様とかを信じてないからこそ、そういう冷たい発想になっただけで、信じてる人にとっては、どうでもいい話です。笑
念のため言っておくと、僕は神様とか宗教の存在を否定しているわけではなく、自分の心の中の問題として、信じるものは救われるというものはあると思っていますし、個人個人の心の問題なんだろうなぁという考えです。だから信じている人を否定はしません。
実際、受験の時とか、神頼みしてました。笑
お守りも、自分の自信、気の持ちようという意味では、とても価値あるものだと思います。
僕はそこはフラットに見ている、というだけです。
(だってなんでも叶えてくれるものがあったらみんな夢叶ってるはずだもん。絵馬も。)
ただ、すがる存在としての「宗教」、は世の中に必要な気がしています。
時代が大きく変わる節目にあって、絶対的な正義や絶対的正しさが見えづらい今の時代だからこそ、宗教というものは頼りやすい拠り所になるのかもしれません。
歴史的には、日本でも世の中が荒れていた時期に仏教の信仰が盛んになっています。聖武天皇の東大寺大仏、国分寺国分尼寺の建立、平安末期の浄土信仰はその典型だと思います。
新興宗教としては、明治維新期には天理教、金光教、高度成長期には創価学会、20世紀末にはオウム真理教などがあります。いずれも、激動の時代に誕生しています。
いつの時代も、宗教は活発です。
(非課税ですし。)
別の「宗教」もあります。
オンラインサロンという形で、「オンラインサロンオーナー」というある種の神聖的な存在のもと、多くの人がコミュニティに結集しています。実質は宗教とは異なりますが、本質は宗教と近いんじゃないのなと思います。 これが正しい!という絶対的な価値観がなくなって何を信じていいかわからないなかで、自分が信じる人を決めるかのように。
または、今流行っている「筋トレ」も一種の宗教なのかもしれません。
参考
「筋トレは、現代の日本で『最強』の宗教なのかもしれない」
https://mistclast.hatenablog.com/entry/2017/04/29/224729
一心不乱に、自分の肉体を痛めつける。それによる筋肉の成長は、自分に心の余裕をくれる。その結果、全ての悩みは取るに足りないように感じてくる。
というわけです。笑
なるほど、となると、どの時代にも、宗教に限らず、悩みを解決する何らかの方法があるんですね。
筋トレは現代の宗教かぁ。一理ありますね。笑