両方とも太平洋戦争における硫黄島の激戦を描いた映画ですが、前者は日本側の視点から、後者はアメリカ側の視点から描いています。
日本側にもアメリカ側にも、戦う人には家族がいて、愛する人がいる一個人が戦争に巻き込まれてしまう悲しさと、戦場の悲惨さを感じさせる映画でした。
僕が劇中で気になったのが、
「公のために命を捨てる」とはどういうことなのだろうか、ということです。
「硫黄島からの手紙」では、二宮和也演じる西郷は妻と共にパン屋を営んでいましたが、赤紙(召集令状)が自宅に届けられ、出征を余儀なくされます。
悲しむ妻に対して、西郷は「生きて帰ってくるから」と言いますが、実戦において、皆が命を捨てようとする、または命を捨ててもいい覚悟がなければ戦争は成り立ちません。
「永遠の0」でも、必ず生きて帰る決意をして特攻を志願しない主人公が描かれていました。
「父親たちの星条旗」では、摺鉢山に星条旗を掲げた兵士の写真が大きなカギを握り、そこに写っている兵士が主人公となっています。
映画では、その兵士たちの中で生きて帰ることが出来た兵士たちが帰国後、太平洋戦争の英雄として扱われることに気持ち悪さを覚えているところが描かれています。
こんな言葉がありました。
掲げた兵士5人のうち、最終的に3人だけが生還し、2人は戦死してしまっていたのですが、
「生きて帰ってきた僕らが英雄なんかじゃなくて、本当の英雄は、死んだあいつなんです!」(うろ覚え)
と言っています。
生きて帰る(帰ろうとする)のは許されていない状況で頑張って戦っても、生きて帰らないと英雄として扱われないのです。
(少なくとも英雄として扱われるのは「死後」ですから、本人の意識上は、英雄としては扱われていません。)
戦争における「生きて帰る」という言葉の深さを感じました。
また、そもそも戦争とは、「お国のために」という言葉の名の下に、私を捨て、公のために戦うことが求められる1番の出来事なんだと思います。
しかし、「公のために戦う」ということは、どういう意味なのでしょうか。
僕らは日常、平和を享受しています。
国民がその平和を享受し続けられるために軍隊は戦わないといけない、ということが基本的な真理だと思います。
戦争は、
例えば、敵国が侵略してきた、国の生活を守らないといけない、だから武器を取れ!という状況であれば、「公のために戦うこと」に納得しやすいです。
第二次世界大戦でドイツに侵略されたポーランド、オランダ、ベルギー、フランスが思い浮かびますし、アメリカの9.11テロを受けた対アフガニスタン戦争も似たものかもしれません。
しかし、戦争といっても、全ての戦争がそういう戦争(公のために戦うことがなんとなく想起できる戦争)であるとは限らないのではないでしょうか。
例えばイラク戦争。
今もなお、納得的な開戦理由がはっきりしません。結局なぜフセイン政権を倒さなければならなかったのか。イラクには今もなお米軍は駐留し続けています。
また、ベトナム戦争はどうでしょうか。たくさんのアメリカの若者が、ベトナムに派遣され、命を失いました。その目的は、共産主義の進出を食い止めることでした。しかしベトナムで、ですよ。そんな戦争に、アメリカ国民が命をかける意味が本当にあったのでしょうか。
日本でも、日清戦争や、日露戦争も、本当に命をかけるべきものだったかと言われると、僕はわかりません。
(ただ、僕は日本の過去の戦争自体を否定しているのではありませんし、日本が「侵略」してはならなかったという話でもありません。)
あくまで一生活者の視点として、普通の国民が、戦争で命をかけることに本当に意味があったのか、ということです。
「硫黄島からの手紙」では、渡辺謙演じる栗林司令官に対して大本営から、「硫黄島には救援は送れない」との電報が届くシーンがあります。
それは、「硫黄島を守れ」という指示とは大きく矛盾している指示です。
戦前、日本軍では投降を禁じられていましたから、それは死を意味します。
しかし、硫黄島の兵たちは、なぜ死なねばならないのでしょうか。何のために死ぬのでしょうか。その死には意味があるのでしょうか。
(念のため言っておくと、僕は兵士の方が命をかけて守ってくれたおかげで今の日本があるのだと思いますし、無価値であったと殊更に言っているわけではありません。
ただ、一般論として、戦争に参加したことのない1人の人間としては、そのように思えるという話です)
僕は、戦争とは、国のメンツのために戦うものであるべきではないのではないかと思います。
日本は、太平洋戦争時、幾度と降伏のチャンスはあったと思いますが、「国体」を守るために、ズルズルズルと敗戦が引き伸ばされ、犠牲者は増えていきました。
僕は「国体」を守るために自分が戦争に出て戦う、ということは正直イメージがつきませんし、一国民として望むことはただただ平和に暮らしたい、ということだけです。
(勿論、過去の時代背景からして、天皇中心の国体というものの重要性が変わっているというのはあります)
だから、「戦争」を考えるときは、抽象的な視点だけではなく、一生活者のリアルな視点を忘れてはならないのだと思います。
そう考えると、戦争を禁ずる意外と日本国憲法9条はアリなのかもしれません。
(でも僕は改正派ですが‥‥‥)
戦争というものの存在をある意味で重く捉える視点が憲法にあることで、現状の国際情勢に鑑みれば厳しすぎるかもしれない内容にはなっていますが、政府の思考に縛りが効いています。
一方、僕が憲法9条を改正すべき(一概に改正派をくくれるものでもありませんが‥‥‥)と考えるのは、軍を持つことと戦争をすることは別物だと思うからです。
あくまで軍が出てくるのは、外交などで解決できない時の最終手段であり、外交交渉をうまく行うための示威の存在として軍が存在するのだと思っています。北朝鮮の核兵器による瀬戸際外交はその象徴でしょう。
しかし、交渉手段のための強力な軍なのに、その軍の存在自体が自己目的化すると、戦争になってしまいます。
軍は何のためにいるのだ?戦うためにあるのだ!となると、あくまで交渉手段としての戦う力なのに、その戦う力という手段が目的化してしまい、戦うことが仕事みたいになってしまう。
まさに日米開戦は、戦うことが自己目的化してしまったことの帰結のような気がします。
日米開戦は、無責任の連鎖によりなあなあで開戦に至ったと言われています。
日本の存在感を保つために、陸海軍はそれぞれ軍拡を声高に唱えてきた。それなのに、開戦前、「アメリカと戦って勝てるか?」と聞かれ、特に海軍にとってはアメリカは仮想敵国でしたから、「勝てません」とは口が裂けても言えない。
その結果、誰もが反対できず、ズルズルと戦争に引き込まれてしまいました。
また、何かあった時のための軍なのに、その「何か」を作ろうとしてしまったのが、柳条湖事件であり、満洲事変だと思います。
軍は、いろんな意味で身の程をわきまえるべきでした。
なので、軍を持つことと戦争をすることは別物です。
軍が存在することと、軍の存在自体が自己目的化して戦争に至ることは別物として考えないといけません。
もちろん、暴走しないような歯止めは必要です。戦後と戦前では根本的に政治システムが違うわけですから、軍を持つことは戦前回帰などではありません。
強力な軍を持つアメリカでも暴走が起きていないのだろうと思います。
(ただ、軍産複合体のもつ政治的圧力、また議員の要望により基地を閉鎖できない、ということはあるようですが、それは軍の暴走ではなく、その周りにいる人が軍を自己利益の点から利用してるだけでしょう。)
確かに、戦前には二二六事件のような、大規模な反乱未遂もおきていましたが、事件については、全軍の蜂起につながりませんでしたし、「日本でいちばん長い日」で描かれたような敗戦時の宮城事件もありましたが、それも全軍蜂起には繋がりませんでした。
なので、(少し遠回りになった気もしますが)軍を持つことと戦争することは別物だと思います。
だから、軍は必要です。問題は、戦争が必要かどうかです。
そこを切り離して考えるべきだ、ということでした。
さて、冒頭に戻ります。
まとめると、
「戦争」というものを考えるとき、国同士の抽象論や正義を考えるのも大事ですが、
一番大切なことは、
その戦争に命をかける意味はあるのかという、「一国民のリアルな視点」を忘れないことにあるのではないでしょうか。