年末年始に地元に帰って、懐かしい発見がありました。
それは、、、
「電話連絡網」です。
「連絡網」とかって、もう今や死語なのかもしれません。
僕が小学生の当時はまだありました。
台風や地震などの緊急時に、担任の先生をスタートとして、伝言ゲームのように既定の連絡網の順番の通りに電話をかけ合い、緊急連絡を伝える、というアレです。
今の時代には個人情報の問題だとかでそういう文化はもうなくなってきているのかもしれませんし、というかそもそも固定電話すらない家もあるのかもしれません。
電話連絡網を見て僕が懐かしく思ったのは、「友達の家の電話番号」です。
僕は高校生からスマホを持ち始めましたが、
僕の地区は中学生でガラケーを持っている人が1学年100人中20人もいないくらいでした。(参考までに、そんな時代です。)
パソコンのメール、Yahoo!メールも使われていましたが、パソコンは頻繁に開いてるわけではなく、時々開いて遊ぶ程度でしたから、小学生、中学生の時、友達と遊ぶ時は必ず、家の固定電話を使っていました。
その固定電話の電話番号ですが、
遊ぶ友達なんて大体決まってますから、遊んでる友達の家の番号は、覚えるつもりはないのにいつの間にか体が覚えてるわけです。笑
さすがに個人情報すぎてここには書けませんが、
6と9が2回重なる番号のR君や、
6が2桁おきにやってくるというリズムに特徴的な番号のD君の家など、
今も暗唱できるくらいかけました。笑
また、僕は鍵っ子でしたから、母親の携帯電話番号も今でもフルで覚えています。
皆さんも覚えてる番号、(小学生からスマホ世代じゃなければ)ありますよね??
翻って、今の時代、誰か一つでも電話番号を覚えてたりするでしょうか?
(LINEやMessengerで電話できてしまうのでそもそも番号自体がいらないのかもしれませんが)
またはLINEのIDでも覚えてたりするでしょうか?
ほとんどの人は、覚えてないんじゃないでしょうか。
(ちなみに、いざスマホのメモが使えなくなったり、公衆電話で何とかしなきゃいけない・・・という時に困ります!というような啓発活動をしたいわけではありません。)
ただ、上記でいう「電話番号を覚える」という、今の時代にとってはいわば「非効率」な行為にこそ、何か価値があるような気がしたのです。
思えば、お城にある「天守閣」も、きれいでかっこいいですが、江戸時代になると非効率で不要なものとされ、天守閣はあまり建てられなくなってしまいました。
そういう意味では、今残っている天守閣という存在はそうした「非効率」の名残でしょう。
卑近な例でいえば、漢字の書き取りもそうかも。
今やネット入力が大学でも仕事でも当たり前の時代、漢字を書きとる力というものの必要性はかつてと比べて著しく低い気がします。
しかしながら、「1つの漢字を書ける」ということは、自分で紙にメモする時に漢字を使えたり、またクイズなどちょっとした自慢にもなります。笑
漢字を書く、ということも、「非効率」の名残だと思います。
さて、「名残」が面白いからといって、「非効率」が素晴らしい!と言いたいわけでもありません。
だって、時代に応じて「当たり前」とされる価値観が変わるわけで、今認められている価値が未来永劫認められ続けるとは限らないからです。
ただ、電話番号の例が一番そうですが、「非効率」と「効率」の両方を知っていることで、なんかトクした気分になれています。笑
「効率」しか知らなかったら、(効率の時代から見て、相対的に)「非効率」のやり方や考え方なんて、知らなかったはずだからです。
(例:完全にスマホ入力の時代になったとしたら、漢字の書き取りなんてやるのは全くの非効率だから、漢字の書き取りなんかに触れる機会すらない。けど、前時代に生まれてれば、漢字の書き取りという行為も、スマホ入力という行為も両方体験することができるという点で、おトクという。)
「効率」を知っているからこそ、今消えてしまった「非効率」を懐かしむことができる。
ちょっと違うかもしれませんが、部活動を懐かしむ気持ちに近いかもしれません。
当時としては意味わからない不条理なことがたくさんあって、その雰囲気を共有していたからこそ、当時の仲間とかつての思い出話に花が咲く。
そう考えると、
時の経過を経ると、どんな物事に対しても何かしらの価値が出てくるのかなあ、または価値を見出せるようになるのかなあ、、、と思います。
そんなことを、「友達の家の電話番号」から思いました。
すみません、ちょっとふわふわした話でした。