先日、山谷(さんや)に行ってきました。
山谷って言われても、ふつう、「え、山谷ってどこ??」ってなりますよね。
「あいりん地区」と言えばピンとくるでしょうか。
山谷は、東京でいう「あいりん地区」です。いわゆる「ドヤ街」です。
簡単に説明をしておきます。
山谷は、住所では東京都台東区日本堤・清川・東浅草と、荒川区南千住エリアを指す地名で、最寄り駅でいうと、JR南千住駅になります。
歴史的に紐解くと、江戸時代には奥州街道からの江戸への入り口となる場所として、日本三大刑場の一つ、「小塚原刑場」が位置しており、被差別層の人たちが周囲一帯でその死体処理を担っていました。
明治以降、山谷地区は、日本の首都となり、全国各地から人が集まってくる「東京」において、低賃金労働者や失業者、ホームレスといった貧しい人々が集まる街となり、日雇い労働者が宿泊する木賃宿街(安宿街)が形成されました。
安宿街としての山谷は戦後も変わらず、高度経済成長を迎えると、高まる建設需要、労働者需要に伴い、山谷には日雇いの土木・建設・港湾労働者が多数集住するようになりました。
要するに山谷という街は、日雇い労働者が多く集まる「ドヤ街」です。
安く泊まれる簡易宿泊所がたくさんあることから、宿の「ヤド」を反対にして「ドヤ」と言われるそうです。
ちなみに日本三大ドヤ街は、東京の山谷、大阪の西成(あいりん地区)、横浜の寿町とされています。
さて、その山谷に行ってきました。
行ったといっても、ただ行ったというわけではなく、山友会という団体が主催するツアーに参加してきました。
僕が見た山谷の街は、ドヤ街と聞いて想像していたよりも全然普通の街並みでした。
簡易宿泊所と住居が共存していて、ここがドヤ街だと聞いてないと、素通りしてしまうくらい、普通の街でした。
山友会の方もおっしゃっていましたが、今、山谷の街は、「労働者の街」から「福祉の街」に変化しているようです。
どういうことか。
山谷に集まる労働者の方々の平均年齢は、平成11年の59.7歳から平成27年には67歳にまで上昇、
65歳以上の高齢者の割合を示す高齢化率も、東京都全体では20%台なのに対し、山谷の簡易宿泊所に集まる人の高齢化率は62.9%。
山友会の方は、「山谷は都市型限界集落である」とまでおっしゃっていました。
山谷には、今や働ける人はあまりおらず、生活保護を受給している人がほとんど(簡易宿泊所の宿泊者のうち87.1%が受給)だといいます。
そうしたことから、山谷は「労働者の街」というよりも「福祉の街」なのだ、とおっしゃっているのでしょう。
さて、ツアーでは、実際に街の中を案内してもらって街を見たり、山谷で生活される方と話をしたりする機会がありました。
一番驚いたのは、山谷の方たちの中には、かつて東京タワーの建設に携わった人、さらにはシンデレラ城を建てた人までいたという事実でした。実際、ちょっとした修理とかをやらせると普通に上手にこなせる人ばかりだと聞きました。
恐るべし、山谷。笑
後で聞くには、山谷に集まる労働者の方の多くは、東北地方を始めとする地方の農家の次男・三男で、高度成長に伴い東京に出稼ぎに来て、力仕事を担っていた人たちだそうです。
そうした方たちは、自分で稼いだお金の中から実家に仕送りをして、家族の生計を支えていました。
(ちなみにですが、東北地方からの方が多かった名残でしょうか。山谷地区には、会津屋など、東北の名を冠した宿が数多く見られました)
問題は、経済成長がずっとは続かないことでした。
やがて経済成長が止まり、職がなくなって失業してしまうと、彼らには帰る場所がありませんでした。実家の農家は長男が継いでしまっています。結果、東京で低賃金・日雇いの仕事に就くしかありませんでした。
山友会の方は、こうおっしゃっていました。
山谷に集まる人たちの、一番の悩みは「疎外感だ」と。
周囲は経済成長の恩恵を享受する一方、同じく経済に貢献してきたはずの自分たちはその繁栄から取り残されている。
しかも周りからはいい目では見られなくて、じろじろ見られたり、社会からは見て見ぬふりをされている。
そうした、社会から取り残された疎外感があるんだ、と。
そして最後に、こうもおっしゃいました。
「山谷は、社会に不要とされた人々を隠蔽する装置として機能してきたんだ」と。
1962年の住居表示制度の導入に伴い、山谷という地名は姿を消しました。
なので今は山谷という地名は目にすることはありません。
また、山谷の街自体も、「労働者の街」から、「福祉の街」に姿を変えつつあります。
なので、現在の山谷地区は、もはやドヤ街として有名な「山谷」ではないのかもしれません。
しかし、僕はドヤ街としての「山谷」はなくなったとしても、
「社会から見捨てられた人たち=山谷」という概念は、ずっと残り続けると思います。
従来は山谷という街が、ある意味でそうした問題を「山谷」という形で可視化する役割を果たしていたのかもしれませんが、
その街が変わりつつある今、社会に対して「疎外感」を覚えている人は、社会からより見えにくくなった状態になっているのかもしれません。
今はかつてのようにドヤ街に集まるというより、ネットカフェにこもったり、さらには家族でネットカフェに住んでいる人もいるなど、色々なところに散らばっているのだと聞いたことがあります。
そう考えると、「社会についていけない人たち=山谷」という概念は、より社会に見えづらいところで残り続けているのだと思います。
僕は、今回の山谷ツアーを通して、統計の数字からはなかなか見えづらい街の姿を目の当たりにし、様々な気付きを得ました。
まあ、「統計」とはいっても厚労省みたいにそもそも統計自体が正確に社会を反映したものですらなかったとしたら、見えるもクソもないわけですが。笑