3月11日になると、必ず、東日本大震災関連番組が放送されます。
あの時、何が起こったのか。
被災地は今。
みたいなやつです。
他にも、世の中を騒がせた、比較的大きな事件・事故が起きた日付になると、「今日は~~から〇年です。」というニュースが流れます。
なぜ、そういうニュースをやるのか。
大抵、理屈は、「風化させてはいけないから。」というものだと思います。
しかし僕は、「そういうものこそ、風化させるべき」だと思っています。
(正確に言えば、「風化させてはいけないものと、風化させていいものもある」ということです)
(ただ、僕自身、そうした出来事の当事者であったことがないので、当事者の方からすると、お前に何がわかるんだ、という話かもしれないのは重々承知しています)
ここで、「そうした出来事を風化させてはいけないんだ!」と考える風潮を、「風化させてはいけない病」と表現してみます。
風化させてはいけないその対象って、ほとんどの場合、悲しい出来事だと思います。
誰かが亡くなって、誰かが心に傷を負った出来事であることが多いと思います。
特にご遺族や周囲の方々は、その出来事で何かを失って、心にダメージを負っている。
しかし、そうした出来事から、前を向いて頑張ろうとしている方も多いのではないでしょうか。
過去を見るのではなく、未来を見て、前向きに頑張ろうと。
しかし、「風化させてはいけない病」がやってくると、いつまでたっても、過去と決別できない。
その度に、自分の中に「過去」、とりわけ悲しい過去が登場してしまう。
僕が考えるに、「風化させてはいけない病」の一番の患者(当事者)は、マスコミだと思います。
毎年、ある日付になると、事件・事故が起こった現場や、当事者の下に取材に出かけ、インタビューし、それをニュースにする。
明るい画はあまりなく、ほとんど、悲しい画として視聴者に届けられる。
悪い言い方をすれば、そうした部分に、同情を必ず誘ってくる。
毎回必ず、「風化させてはいけません。」と風化させないことがあたかも正義かのように訴えかけます。
ただ、そうしたマスコミの「風化させてはいけない病」に慣れた視聴者である僕自身も、同じようなことを考えてしまったことがあります。
大学1年生の春、2015年の5月に、ゼミで東北の被災地を見学した時の話です。当時の僕は、被災地を見学できる!と、がれきや地震、津波の跡をこの目で見てみたいと思っていました。
そして、津波の被害が非常に大きかった陸前高田市に着いた時でした。
正直言って僕は、不謹慎ながらガッカリしてしまいました。
そこには、僕が「被災地」として期待していた景色は広がっておらず、もうほとんど復興されてしまっていたのです。
「アレ、意外と復興しちゃってるじゃん」と、少し落胆してしまった自分がいました。
自分がそう考えてしまった背景には、「被災地はかくあるべき」という固定観念があったと思います。
普段なかなか行く機会のなかった東北に行ったという事情もあったと思いますが、被災地は、被災地っぽくしておいてほしい、的な。
風化の話も同じじゃないでしょうか。
悲しい出来事は、世の中に悲しい出来事のまま共有されているべきだ。
風化させてはいけない。
節目節目で必ず思い出そう。
というような。
過去の自分への反省も含めていますが、そこには実際の当事者の視点が抜けていると思っています。
「風化させてはいけない」は、よそ者の傲慢な気がします。
特にマスコミは、「伝える」ということが自己目的化しすぎて、時にそのように傲慢に陥っていることがあるのではないでしょうか。
伝えたい画を探して、その場面を作り出す。
時にそれは世界を救い、時にそれは傲慢となる。
ちなみにそう考えると、イッテQのやらせ問題も同じ話だと思います。
風化の話に戻します。
○○を風化させるべきではない。
悲しい記憶としてちゃんと残しておこう。
というのって、いうなれば、忘れることを許さない感じです。
でも、当事者の方の中には、忘れたい方も沢山いると思うんですよね。
だけど、「風化させてはいけない病」によって、毎年思い出さないといけない。
もちろん、僕はすべてを風化させてもよいと考えているわけではありません。
あくまでも、当事者に寄り添い、当事者の立場に立って考える必要があるのではないかということです。
ただ、風化させてはいけない部分ももちろんあると思います。
地震などでいえば、災害対応は良かったのか、今後の地震への備えはどうあるべきか、など今後に生かしていくという点では、風化させてはいけない要素もあるということは付記しておきます。
ただ、僕は「風化させない。~~から〇年」という報道を目にすると、何か違和感を覚えずにはいられません。