三男日記

愛知県蒲郡市出身、今東京におります三男です。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

「絶対」を疑う。

小さい頃、こんなことを言われた記憶があります。

ガソリンの匂いを好きとかいっちゃダメ。
とか、

オウム(真理教)に興味を持っちゃダメ。

とか。

小さい頃の親の「絶対ダメ!」という言葉が意識に刷り込まれて、親に注意されたことに関しては自分の中では「絶対ダメなんだ!」と考えてしまっていました。

今回は、その「絶対」という言葉について考えたいと思います。

 


僕は、「絶対○○」というのは思考停止の象徴だと思います。

 

絶対」とは、「絶対化」とでもいえるでしょうか。

絶対化することは、僕はあまりよくないことだと思います。
何事も「相対化」が大事ではないかということです。

高校の時の話です。
僕の出身の時習館高校(私立っぽいけど県立です)は、自校の教育を「絶対化」していたので、僕はあまり好きではありませんでした。

簡単に言えば、時習館では、塾に行くことが推奨されません。

というか、塾に行ってると先生から嫌味を言われます。
時習館の決まり文句は、「時習館は塾に行かなくても学校の勉強だけで大丈夫」でした。

塾に行くことは自分の(進路とか、理解度とかに合わせて)勝手なはずなのに、塾に行っていない人が過度にほめたたえられる風潮があります。学校が主催する、後輩に向けての受験セミナーで学校側から登壇してくれと声をかけられるのは、必ず塾に行っていなくて現役合格を勝ち取ったやつでした。

そのくせ、学校では一律の授業を受験直前の2月でさえ強制します。本当はそれぞれの生徒に必要な勉強があるはずなのに、同じ時間で同じ教材を取り組ませられます。


こんな話がありました。
3年の秋、うちの学校では全員、進研マーク模試を受けることになっていました。
しかし、東大受験を目指す人にとって進研模試は正直言ってレベルが低く、偏差値も異常に高く出ます。そのため、安くないお金を払って、しかも時間もかけて進研模試を3年にもなって受ける意味を見いだせなかった僕は、先生に「受けたくないです」と伝えました。
そしたら、進路指導の先生に呼ばれ、こういわれました。
時習館は精選した模試しか受けさせてないから、受けなさい。」と。笑笑

模試に対する姿勢を議論するとキリがないのでやめますが、
一番言いたいのは、時習館の、自らに対する絶対化はおかしいのではないかということです。

 

先生の生徒に対する接し方や、模試の姿勢からも、自校の教育が最高だ!という「絶対化」が透けて見えます

ただ、時習館も、ずっと前から自らの教育を絶対化していたわけではないと思うのです。

スタートから成績のいい高校なんて私立以外ではないと思いますし、そう考えると最初の時期は、上を目指せ!と様々な考え方を取り入れた教育や、寛容な姿勢だったのかもしれません。

 

しかし、誰しも(どんな組織でも)、自らを絶対化してしまう罠に陥りがちな気がします


例えば、

自らの現状をしっかり把握して、目標目指して謙虚に頑張った結果、そこそこの実績を残したとします。
そうして成長すると、当初は自分を相対化できていたのにも関わらず、その結果として自分に自信がついてしまうがゆえに、自らを少しずつ絶対化してしまうような気がするのです。

 

自分のやり方が正解だ!」と

時習館高校も元々そうでしょう。
愛知県は大学受験においては公立高校がかなり強い地域です。
過去には実績が良かったのでしょうが、段々他校に実績で抜かれているにもかかわらず、その過去の栄光を今も絶対化してしまっているのだと思います。

タチが悪いのが、全国的には大したことなくても、三河地区の中でも豊橋市を中心とした東三河エリアでは(成績的には)一番の高校であるために、変なプライドが生まれてしまうように思います。


(実績が全てではないという指摘はあり得ますが、高校の大学受験指導の話をしていますので、実績の話に単純化しても許されるかと思います。)

話を大きくすれば、「日本」も同じではないでしょうか。

明治以来、また戦後も、西洋に追いつけ追い越せで成長し、世界の中でも有数の経済大国としての地位を固めました。
その時代は日本の技術力、製品が世界で評価されていたのだと思います。

しかし、今は経済力では中国にも抜かれ、かつて強かった電機産業、製造業は今や韓国・中国などの企業に追い抜かれてしまっています。

そうした日本の停滞が続いている原因の1つは、「日本」の絶対化にあるのかもしれません。

「日本の技術力は世界から評価されている!」とか、
「日本は世界からすごいと思われている!」といった言説がまだまだあります。

いわゆるニッポンスゴイ論
(テレビ番組でもありますよね?日本をひたすら褒める番組。)

追いつけ追い越せの結果として、追いついて抜かしてしまった結果生じたある種の万能感が、日本の衰退を許してしまった面もあるのではないでしょうか。

日本は自らの現状や、外からどう見えているのかに対してもっと謙虚であるべきだと思います。


冒頭の話に戻ります。

僕は「絶対(化)」は、思考停止の象徴だと思います。

冒頭の話でいえば、親から「絶対ダメ!」と言われて育ってきましたが、

本当は、なんでダメなのか?何がダメなのか?をきちんと伝えた上で(相対化して伝えた上で)、ダメだと伝えるべきだと思います。

絶対ダメ!という説明は、説明になってるようで説明になってない。

よくあるのが、覚せい剤絶対ダメ!」のコピー

しかしただ単に「絶対ダメ!」だと、いざ自分が弱くなった時に覚せい剤に手を出してしまいそうな気がします。誰でも、「絶対ダメ」なのはわかってるけれど手を出してしまうわけなので・・・。

こういう時に手を出してしまうかもしれないけれど、〇〇だからダメなんだ、とちゃんと相対化して説明した方が、覚せい剤に手を出してしまう実情に合った伝え方になるような気がします。


というように、思考停止の象徴としての「絶対(化)」と、それが一番反映された「絶対ダメ!」という文句には、僕は違和感を持っている、という話でした。

 

「絶対」は疑いましょう。笑

 

「絶対」という言葉の持つ意味について考えてみました。