三男日記

愛知県蒲郡市出身、今東京におります三男です。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

日本学術会議問題は、何も問題ではない。

日本人は歴史的に、公の問題はお上がすべてやってくれると思っている。

 

大学時代の法制史の授業で、日本人の政治的特性を学びました。

 

奈良時代より、臣民(国民)は天皇から土地を与えられ、支配層とそうでない農民層がきっかりと別れていたため、日本においては政治のことは国民が考えることではなく、お上が考えて万事やってくれるものなのだ、という意識が根底にあるのだと。

 

江戸時代の士農工商も含め、政治は武士がやるもの、など、一般の農民にとって、政治とは程遠い時代が続いた分、なかなか政治に国民が参加する、ましてや国民が選挙を通じて選んだ政治家を通じて国を動かす、という意識がアメリカより低いのかもしれません。

 

最近巷を騒がせている日本学術会議のニュース、皆さんどう思われますでしょうか。

 

ニュースの概要としては、日本学術会議という、内閣府に設置された総理大臣の諮問機関で、研究者の意見を政策に反映させることを目的に設置される会議体の構成員の人事を巡って、従来は会議側が推薦したメンバーをそのまま総理大臣が追認していたものを、菅政権が一部メンバー6名を構成員として認めなかった、という出来事です。

 

これに対しては、菅政権の政治介入だ!という批判をよく見かけます。

 

また、杉田官房副長官の不当な人事権行使だ!という主張も。

(いちいち総理が全部見てるわけないんだから・・・笑)

 

これは果たして、菅政権による、学問の自由の侵害なのでしょうか。

 

僕は、決してそうは思いません。

 

法律上任命権を持っている総理による当然の人事権の行使だと考えます。そもそも、慣例/法解釈レベルで会議側の推薦メンバーをそのまま総理が追認していたこと自体がおかしくて、正常に戻っただけではないのでしょうか。

 

日本学術会議側が推薦したメンバーを総理がそのまま追認していたら、そのメンバーが本当に正しいかどうかのチェックは、どのように行われるんでしょうか?

 

もし仮に総理がしっかり審査したうえで認めているとしたら、その人事の責任は政治にあり、選挙権を通じて国民が監視することができますが、もしそれができないとなると、学術会議は内閣府の機関であるにもかかわらず、総理の監督が及ばない、アカデミー界による「既得権の巣窟」と化してしまいます。

 

やりたい放題できちゃうじゃないですか。

 

また、学術会議の構成員になれなかったからと言って研究内容に影響が及ぶことはないのですから、学問に政治介入したという指摘は当たらないと考えます。

 

日本では、なぜか自ら選んだ政治家より、自ら選んでいない官僚機構を以上に信用する風潮があります。上記の意識が影響しているのでしょうか。

 

検察庁法改正案の騒動の時も、政治が検察庁の人事に介入することはおかしい!という主張がありましたが、そうした批判は、サンデーモーニングなど左系メディアを中心に語られていました。

 

リベラルを主張する左系は、ふつう国民の自由を守るために権力をしっかり監視せよ!というはずが、なぜか官僚機構の思うがままにさせて政治家の言う通りにさせるな!という主張をするという、絶対逆だろ!みたいな。笑

 

もっと日本人は、既得権の構造に疑問を持つべきです。

 

お上が万事うまくやってくれるはずが、みんな自分のジャンルの利益しか考えなかった結果今の日本があるわけで。

 

加計学園獣医学部を一つ新設することでさえ、獣医師会や文部科学省を始めとする既得権側が猛反発して大政治スキャンダルになってしまうような国に住んでいる身として、もっと政治に色んな人が関心を持って考えをぶつけあえるような、そんな国にできたらいいなと思っています。政治はみんなのもののはず。

 

宮澤喜一元総理の言葉ですが、

アメリカの大統領を『アメリカの大統領』たらしめているのは、アメリカ大統領選挙の過程である。

 

まさに多くの人が政治に関心を持って選挙によってえらばれる政治家という存在を国民の代表たらしめることが、日本の政治を変えていく一歩なのかも!と思います。