「常識を疑う」とは、よく言われる言葉です。
目の前の物を所与と思わず、自分の考えを持つことは非常に大事なことだと思います。
世界は常識で溢れていますし、常識を疑うことは大事なことだとよく言われます。
(まさにそうした考え方こそ常識なのかもしれません。)
しかし、あまり着目されない「常識」が一つあるような気がします。
みんな必ず一つは持っていて、目には見えなくて、ずっと一緒にい続けるものなーんだ。
何でしょうか。
「名前」です。
「名前」って実は深いなあと思うんです。
誰もが1人のヒトとして生まれたわけだけれど、
「名前」が付くことによって、ちゃんと「人間」になる。
“A man”から、”the man”になる。
例えば、事故で「30人死亡」と聞いても正直あまりイメージが湧かないと思ってしまいますが、
30人の名前をそれぞれ見た瞬間、「30人」という人間の持つ存在感に圧倒されます。
それくらい、名前の持つ「個人性」「インパクト」は強いと思います。
そして、人間は、基本的には生まれてから死ぬまで、ひたすらその名前で呼ばれ続けることになります。
さて、そんな名前ですが、
生まれた子どもへの名付けは親の特権といわれます。
親が決めて以来、その名前はその子の人生に一生付き添うことになります。
親にしか決めることのできないものだと思います。
親にとっては、名もなきモノに名をつけるわけですから、本当に大きな出来事になると思います。
しかし、名前については親の意思、また時には住職さんの考えなど、「周囲の大人の意思」が大きな影響を与える一方で、子ども自身の気持ちや考えは全く考慮されません。
仮に親が納得した名前をつけ、子どもにとって納得いかない名前でも、子どもはずっとその名前を背負って生き続けるわけです。
そう考えると、名前って親のフリーハンドが許されすぎてませんか?(笑)
親の性善説に立ちすぎています。
田中姓の親がもし子供に「チンギスハン」と名付けたら、
その子の名前は少なくとも自我が芽生えるまでは確実に「田中チンギスハン」と呼ばれるでしょう。絶対いじめられますよ(笑)
それはそうと措いておき、時々不思議にならないでしょうか。
この親不孝者!と親に言われて家を出て、ひどい時には親との縁を切った人でも、
大体、名前だけはそのまんまなんですよね。
親との縁を本当に切るには、名前ごと(苗字、下の名前とも)変えちゃえばいいのに、なぜか名前だけはそのままです。
どんな親不孝者であっても、名前を変えないという点で「名前孝行」をしているわけです。
名前が疑いようもなく自分のものになっているからでしょうか。
しかし、ここで考えてみたいのが、名前と自分は一緒なのかということ。
自分という人間には、もっとほかの名前があるのかもしれない。
今の名前は違うのかもしれない。
そう考えたことはないでしょうか(笑)
でも、確実に、今の名前が自分を構成しているのは事実です。
例えば単純に、「元気」くんなら、わずかでも「元気」という名前を気にして元気でいよう、とか気にしたことはあるでしょう。
「政二」くんとかなら、政治を意識するでしょう。
キムラタクヤくんとかは、一生、木村拓哉を背負ってかっこよく生き続けなければなりません。
名前が先か性格が先か、というくらい、名前はその人の人生を規定しているような気がします。
名前って、自分に大きく影響を与えるのに、ほとんどの人は名前・下の名前を変えません。
だけど思えば、企業の名前は時代に応じて変わっていきますよね。
松下電器も、社名を伝統ある「松下」を捨て、「パナソニック」に変更し、グローバル戦略へのかじを切りました。
名前って、自分を規定する分、心機一転自分を再定義する、方向性を決定するのに一番やりやすい方法だと思うんです。
暗い性格を変えよう!と思った人が、名前を「友一」から、「元気」にするみたいに。
そうすると友一くんは、これから自分の名前を書くときに「元気」を意識することになる。
効果があるかは別として、自分の気持ちだけは、かなり変わるのではないでしょうか。
ただもし改名した時、やはり気になるのは周囲でしょうか。
親に申し訳ない、とか、周囲にいちいち説明しないといけない、とか、昔の友達にわかるかな、とか、手続き面倒くさそう、とか。
多分こうしたことが気になるから、改名ってしづらいのかなあ。
自分の名前なのに、「自分以外」の外的要因が足かせになってしまっている。
名前は自分以外のためのもの?
そう考えると、
名前は、その人自身を一番強く規定するのにもかかわらず、本当の意味で本人に帰属していないような気がします。
名前。
雑な文章ですが、名前の不思議さが伝わればいいなと思います。