三男日記

愛知県蒲郡市出身、今東京におります三男です。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

コロナ禍での帰省は許されないのか?

新型コロナウイルスの第3波が収まらぬまま、クリスマス、そして年末年始を迎えそうです。

 

Go Toは年末年始の利用は停止。

 

今年のお盆休みは帰省をやめた人が多い中で、年末年始こそは田舎に帰省するつもりだった人が多いと思いますし、なかなか難しい状況になってきました。

 

僕も、夏に帰省をやめた一人で、正確に言えば、やめさせられた、に近いんですが、帰省予定の直前になって、親から、「やっぱり感染が心配だからやめて」ということで、中止になりました。

(その時、田舎でワーケーションしよう、と思っていて周囲に宣言していたのですが、普通に会社に出社することとなりました。)

 

なので、今年の年始以来、両親はじめ、兄家族にも会えていないため、年末年始を一応楽しみにしていました。

 

 

ですが、この風潮です。

 

会社のある先輩は、おばあちゃんがいるから大阪で過ごすわ、と言っていましたし、帰省を見送る人も多そうです。僕は祖父母がもう他界していることもあり、家族の中でそこまで高齢者はいないですが、兄の年齢が上なこともあって高齢ではあるので、注意は必要な気もします、そこが難しい。

 

ドイツのメルケル首相の「今年のクリスマスが、祖父母と祝う最後のクリスマスになるかもしれないから、人と会うのを我慢してくれ」という演説をしていましたが、帰省の自粛というムードが漂いつつあります。

 

news.yahoo.co.jp

 

 

ですが、僕は、こういう見方も支持したい。

 

agora-web.jp

 

帰省をしなかった場合、今の新型コロナウイルスの死亡率よりも、来年親が他界してしまう確率の方が高い、というものです。

 

しかし、東京から症状が出ているわけでもない子や孫が帰省して、それがコロナを感染させ、さらに、それが親や祖父母の死につながる危険性は何パーセントあるのだろうか。ともかく今は、全国で新規感染者が1000人ほどで死んでいる人が5人以下なのであるから、運悪く罹ったところで1パーセント以下の死亡率だ。これは、ほとんどネグリジブルであって、帰省した人が無症状の感染者で、親や祖父母に気をつけていたにもかかわらず感染させ、しかも、死ぬ可能性など天文学的なものでしかない。

 

一年間、帰省せずに来年は親や祖父母が死んでる可能性は、男性についてみると、60歳の誕生日から一年の死亡率は0.9パーセントだが、65歳で1.2パーセント、70歳で2.1パーセント、75歳で3.6パーセント、80歳で6.0パーセント、85歳で10パーセント、90歳でなら16.5パーセントだ。

これはそれぞれの誕生日の話だから、80歳の親の場合、平均でいえば80歳(6.0%)と81歳(6.7%)の中間の数字で論じねばならないし、二年のあいだ帰省しなければ上記の数字の2倍よりかなり高い死亡率となる。80歳なら15パーセントほどだ。帰省をしないことで次の帰省の前に亡くなっている可能性はかなり大きいのである。

 

 

これは夏の記事になるので、現時点での死亡率は、死亡者数2702人(15日現在)÷感染者総数18万4732人(15日現在)で、0.0146となり、1.46%となります。

 

(参考)

新型コロナウイルス 日本国内の感染者数・死者数・重症者数データ|NHK特設サイト

 

年齢別の死亡率のデータがないので単純比較はできませんが、多く見積もっても15%よりは低いのではないでしょうか。

(念のため申し添えておくと、数字遊びをするつもりは毛頭ありません)

 

 

感情としては、確かに帰省を見送る感じにもなりますが、一歩引いて冷静に考えて、感染防止策をとったうえで、帰省をした方が社会全体としては望ましいとはいえないか、とも考えられるわけです。

 

 

(ただ僕が帰省したい、という感情を割り引いてもです。)

 

自分の家族の周囲には高齢者はいないので、高齢者の方と接触する人は気を付けないといけないと思いますけれど、普段皆さん、通勤通学やスーパーに買い物は行きますし、そうした生活で多くの人に接しているわけで、東京・大阪などの都会から家族が1人帰ることにそこまで神経を張り巡らせる必要はないんじゃないかと思います。

 

それが心配なら、スーパーなんか不特定多数の人が集まってベタベタといろんなものを触ってるわけで。マスクも100%ではないし。だから、心配はキリがないと思うんです。

 

それよりも、高齢者を守るための施策を強化したり、初もうでや初売りなどを小規模にすることで足りるのではないかと。

 

帰省における、不要不急の部分ですね。

 

家族の中で、家の中でゆっくり会話するくらい、このコロナでつらい1年を頑張ったご褒美として楽しませてくれよ、と思います。

 

自粛警察に怒られるかもしれないですが、自分が我慢しているから人も我慢しろ、は違う気がしますし、帰省くらい、万全の感染対策をすれば許してあげてもいいんじゃないかな、、、と思うわけです。

 

過度な自粛は、あまりよろしくない。

 

適度な自粛が、必要なんじゃないでしょうか。

星座なんて、星座なんて、、、

冬の星座といえば、オリオン座

 

星座といわれて思い出すのが、地学の問題。小学校の時に、天体の授業で星座の勉強をして、自転、公転といった条件の中で、この星座がこの角度に出る日にちは?といった問題を解いていたのを思い出します。

 

星座は、テレビ番組の星座占いでよく出てきますが、1928年に国際天文学連合が、世界共通で【88個】に決めたそうです。当時は天文学者が無限に星座を作り出してきりがなくなったそうで、88個に決められたそうです。

 

星座 - Wikipedia

 

 

ぼうえんきょう座や、ちょうこくしつ座など、全く聞いたことのない星座も含まれています。笑

 

 

先日、とある場所でプラネタリウムを見たんですが、その時に、星座の話が出ていました。この星と星はこれで、この星はこれで、と色んな星座の話をされました。

 

冬の星空には、ペガスス座が真ん中に輝いているそうで、星座を描くシミュレーションをしてくれていました。

 

ですが、、、

 

いや、こじつけやん!!!!!

 

って思いました。

 

どう考えても、ペガススには見えないし、どう考えても、パッと空を見た時に、ペガススが出てこない。笑

 

 

 

ですが、メインの星座として、ペガスス座が描かれ、オリオン座なども描かれています。一応、有名どころです。

 

全部全く理解できない!!!!!

 

って思いました。

 

めちゃくちゃこじつけ。

 

でも、でもですよ、

そんな違和感と同時になんですが、これはペガスス座だ、と言われると、ペガススに見えてくるんです。こう見ればいいのか!と。

 

なんとなくですが。線で描いたものをなんとか記憶に残そう残そうと必死で思った結果ペガススが浮かび上がるわけですが、それは何とか頑張った結果です。脳が無理して繋いでくれてるんです。

 

でも、何も聞いてない段階で、これ、ペガススやん、って思わない。笑

 

でも、いまそれは世の中的にペガスス座だと言われています。

 

となると、ちょっとはペガススに見えてくる部分もあるじゃないですか??

 

 

なんか、星座について考えてると、大事な本質って、「こじつけ力」だと感じました。

 

なんか、一つでもこれだ!と仮説を見立てて、つなぎ合わせる。

すると、みんなにとってその像が間違ってたとしても、見えてくるものがある。

 

全然ペガススじゃないよそれ、とか。

もっとこれに似てるんじゃない?とか。

これがペガススなら、これはサソリじゃない?とか。

 

だって、もはや誰がおうし座で、誰がおひつじ座とかは気になるけど、空見て、誰もこれがおうし座だよ、とかやらないじゃないですか。

 

それでいうと余談ですが、

もう星座は、星座としての役割よりも、別の社会記号になっているように感じています。

 

星座で重要なのは、それが「星座である」という意味だけであって、それが星を繋いで描かれるものであるかどうか、実際にそう見えるかどうか、は全く関係がなくなっている。

 

星座は、星座であるという出自それ自体が大事なんですね。もはや。

 

(血液型は、占い要素もあるのですが、輸血などの時や、DNAの法則という点で、機能性はまだ存在しています。)

 

ちょっと話それましたが、

話を戻しますと、要は、星座においては、見立てが大事ってことです。

 

ゼロベースで、ペガスス座なんて描けない。ペガススじゃないか?という仮説がないと、無理!!!だけど、仮説があるからこそ、議論もできるし、星座の理解が深まるわけです。何より、なんとな~くペガススに見えてくることもある。

 

社会も一緒だな~と。

 

見立てをまず立てること。それで議論すること。

 

幻冬舎の箕輪さんも、「叩き台を作るやつが一番偉い」と言っていますが、まさにそうだなと。

 

星座なんて、星座なんて意味わからないんだけど、なんかその意味わからなさに、星座の奥深さが潜んでいる気がしました。

SDGsとかESGとかに思う。

昨日の日経新聞の一面トップは、日本製鉄が、脱炭素を進める、という記事でした。

 

www.nikkei.com

 

最近、ESG投資やSDGsの重要性が声高に叫ばれ、日本もおいていかれるな!という議論が高まっています。菅政権も、脱炭素政策を加速化させ、DXと並ぶ政策目標として掲げているようです。

 

菅首相「脱炭素で経済と環境の好循環を」長期戦略の見直し指示 | 環境 | NHKニュース

 

 

投資マネーがESGに行くから、経営上の指標としてESGが大事になってきている、とはよく言いますが、でも、実際の生活をしていて、そこまでESG領域まで気がまわっていないのがリアルではないでしょうか。

 

環境などに配慮したものを買うことを「エシカル消費」といいますが、エシカル消費といわれても、そこまでお金をかけて環境にいいものを使うに至らないのが、僕の実感ですし、今の日本の多くの消費者の実感だと思います。

 

ですが、グローバルの論調は、異なります。

 

脱石炭発電、グリーンボンド、ソーシャルボンド、EV、グリーン水素など、あらゆる領域でのESG対応が急速に進んでいます。

 

日本でも、SDGsが大事だ!ESGが大事だ!と色んなものに取り入れようとする動きが進みつつあるようですが、僕はどうにも、表層的な気がしてなりません。

 

違和感がすごいです。

 

正直、社会をよくするためにビジネスをしているんだ、なんて近江商人三方よしとか、松下幸之助の発想にもある通り、日本の企業はもともと大事にしてきたことですし、(海外での生産拠点での過重労働などはよくわかりませんが)

理念として組み込まれているモノです。

 

それを、急にSDGsだ!ESGだ!と慌てて対応しようとしてること自体、ちょっと違うんじゃないかなと思うわけです。

(もちろん、見え方、のために対応せざるを得ない事情は分かります)

 

そもそも、SDGsやESGといわれているモノは、経済的主導権を失いつつあった欧州がゲームの主導権を握り直すために言い出したルールにすぎません。自分たちが戦える土俵をうまく作り出しただけで、その波をうまく作ったに過ぎないのです。

 

wedge.ismedia.jp

 

それに踊らされてしまっている中で、どう戦うか?ということが難しいわけですが、あるコンサルタントの方がおっしゃっていましたが、

「日本はグローバル市場のルールを作る側になるという意識が弱すぎるから、欧米の後手になってしまう」

ということです。

 

実際、今の自動車産業は日本が世界一級の実力を持っていますが、EVは中国に先手を打たれようとしていますし、雲行きが怪しくなってきました。

アメリカが中国を排斥しようとしているのも、世界一を守れなくなっているからですよね。

 

もっとほかの国はエゴをぶつけあって、主導権を握ろうと必死で生存競争をしている。

 

与えられた市場の枠内で戦うという意識は勿論のこと、次の市場をどう牛耳っていくのか?という欧州みたいな貪欲な発想も日本にとっては重要なのではないでしょうか。

 

多分、日本がSDGsやESGに対応しきったころには、また次のルールがうまれて日本はあたふたしていることでしょうし。

 

知らんけど。

国語で習う「平和⇔戦争」は真か?

さいころに国語の授業で、「平和」の反対は「戦争」だと習いました。

 

テスト上は、それで納得していましたが、それを習ったときから、なんか違和感があったんです。

 

平和、は状態を指す言葉なのに対して、戦争、行動を指す言葉です。本当にそうなのかな・・・とずっと心の奥底で思っていたんですね。

 

でも、その当時には、それが単なる言葉の性質の問題なのか、それとも意味の問題なのか、モヤモヤしていました。

 

年を重ねるにつれ、その違和感は、意味寄りにもなっていきました。

 

日本が太平洋戦争を始めたのは、あくまで「自衛」のためだったり、アメリカがアフガニスタンイラク戦争を始めたのも、「自衛」のため。

 

戦争をしたいために戦争をするのではなく、平和を守るために戦争をしています。

 

あれ、戦争の反対は平和、という単純な対立構造ではなく、平和のための戦争、も存在している・・・?

 

というモヤモヤを抱えていた中で、最近、改めて「平和」「戦争」問題について、考えさせられたことがあります。

 

NHK大河ドラマ麒麟がくる」を見ているのですが、興味深いシーンがありました。

 

明智光秀は、元々戦は嫌いで、戦を避けるために様々な大名と交渉し、掛け合ってきました。

 

しかし、室町幕府や朝廷は権威を失っており、なかなか戦の世が終わらない。そんな時、織田信長の台頭に直面し、信長の力を見せつけられます。

 

そして、光秀は、悟ります。

 

信長なら、世を平和に治められるのではないか?

ただ、そうなるためには、戦を避けるのではなく、まずは戦をしなければならないのではないか?

真の平和は、戦のあとにしか訪れないのではないか?

と。

 

結果として、光秀は信長とともに戦う道を選びました。

 

という過程における、光秀の葛藤は、まさに「平和」「戦争」の対立構造に対して疑問を呈するものだと感じました。

 

 

僕のモヤモヤの正体は、こういうところにあったのかもしれません。

 

さいころの教えは、「平和の反対は戦争だよ、だから戦争は絶対にダメなんだ」という教えの文脈においてでした。

 

おそらくそれは、戦後日本が戦争の反省を踏まえて、二度と繰り返さない、という政治的意図の表れでもあったのだと思います。とりわけ、教師の組合など含めた教育系では反戦の傾向が強いと聞きますし、そういうことだったのだと思います。(たぶん)

 

しかしながら、世の中は単純ではなく、平和を掲げて戦争をする、ということが平気で起こりえます。

 

今でさえ、中東で戦争(紛争)が起こっているのは、それぞれの国の平和のためです。イスラエルも、自国の平和のためにイランに戦争をしかけたりしています。

 

 

そうなったとき、日本の教育の通り、平和⇔戦争の思考では乗り越えられないと思うのです。

 

日本が戦争に負けて、戦争を二度と繰り返さないんだ、という決意は尊いものですが、世界の現実には対応しきれていない気がします。

 

明智光秀が考えた葛藤のようなモヤモヤに立ち向かってこそ、真の平和(戦争がない状態)は実現されると考えます。

 

 

だから、色んな意味で、「平和」の反対は「戦争」ではない、そうであるべきではないと思いました。

 

日本語としても変ですしね!せめて、「戦争状態」かと。

また、屁理屈言えば、戦争していても平和なこともあるわけですし。。。

 

 

平和の反対は、なんなんでしょうね、、、。争い、でもないと思います。

 

敵対とか?憎悪とか?無秩序とか??

 

 

 

いや、、、

平和の反対は、「平和じゃない」とかですかね?笑

原発訴訟に見るむなしさ

大阪地裁で、大飯原発の3号機4号機の再稼働差し止めの判決が出ました。

正確には、原子力規制委員会の設置許可処分の取り消しを命ぜられました。

 

www.asahi.com

 

今までも全国でたくさんの原発訴訟が起こされていますが、最終的にほとんどは電力会社側が勝訴しています。まあ、勝訴して原発が電力会社の意のままに動かされ続けた結果が福島原発事故に結び付いてしまったわけですが。

 

 

まあ、これ、原発訴訟を住民が起こして、司法の力を頼っていくことは大事なことだとは思いつつも、僕個人的には、冷めた目で見てしまいます。

 

なぜなら、司法機関もあくまで一政府の機関であって、日本の司法は機関として国民の方を向いていないからです。

 

どういうことか。

 

(ちなみに今回は、原発の賛否には踏み込みません。あくまで司法制度論の話です)

 

 

これ、原発訴訟で住民側(原告側)が勝ってるのって、基本的には地方裁判所レベルで、時々高裁レベルで原告勝訴判決が出たりはします。

 

ただ、最終的に原告が勝訴した例は、一例もないんですよね。巧妙に最後は電力会社が勝つように”できている”。

 

 

こんな記事があります。

 

news.yahoo.co.jp

この記事は、原発訴訟で電力会社にノーを突き付けた裁判官は、「司法行政」の経験がない、ということに触れています。

 

「司法行政」とは、裁判の現場ではなく、最高裁判所の事務総局という裁判所を統括する組織での仕事、ということです。裁判行政、ということですかね。

(参考:最高裁判所事務総局 - Wikipedia) 

 

「法服の王国」という、黒木亮さんが書かれた、最高裁判所をテーマにした傑作小説があります。

法服の王国――小説裁判官(上) (岩波現代文庫) | 黒木 亮 |本 | 通販 | Amazon

 

法服の王国で描かれている通り、裁判官は、最高裁事務総局を中心とする人事によって強く統制されています。裁判の方向性についても、裁判官は研修会等を通して一定の方向へ誘導されているのが実態なようです。

 

gendai.ismedia.jp

 

その結果として、原発訴訟が最終的に住民勝訴の方にうまくいかないようにできているメカニズムが見えてきます。

 

イメージはこんな感じです。

 

裁判の方向性を決めるからと言って、その言うことを聞かない裁判官も、数が多ければ何人かは出てきます。そうした結果が、住民勝訴の裁判です。

 

ですが、仮にそういう結果になったとしても最高裁事務総局は、住民勝訴を防ぐために、次の高裁では、裁判長に信頼のおける人間を送り込み、判決を握りつぶします。

(そもそも高裁レベルにはある程度人事的にも、中央に忠実な人が配置されているとも言えますが)

 

住民勝訴の判決を出した裁判官は、そのまま左遷されるか、一生中央に戻れないか、そうした政治判決に影響のない裁判所(家庭裁判所など)に出されてしまいます。露骨に人事権で見せしめをするのが今の司法行政です。

 

gendai.ismedia.jp

 

それは、原発訴訟に限った話ではなく、そもそも行政に対峙しようという気概が司法にはない、ということなのです。

 

日米安全保障条約自衛隊関連の裁判でも、もちろん国が勝訴しています。

 

とりわけ自衛隊の合憲性が争点となった長沼ナイキ事件は、札幌地裁所長が裁判長に圧力を加えたり、最終的に住民勝訴(違憲判決)を下した福島裁判長は、その後地方に回され、一回も裁判長を務めることもなく退官することになったりとか、露骨です。

(法服の王国ではそのあたりもノンフィクションっぽく生々しく描かれます)

参考:

長沼ナイキ事件 - Wikipedia

 

しかし、なぜ司法が行政に対して弱腰になっているのか。三権分立で独立しているはずではないのか。

 

行政に対して保守的になってしまう要因として、

法服の王国で描かれていたのは、

裁判所が組織として大きくなってくると、予算がかかってくるが、予算がかかってくるようになると、財務省と折衝しないといけなくなってしまいます。そうなったとき、財務省や政府にたてつくと、裁判所としても予算を付けてもらうたちばであるわけですから、厳しくなってしまう。

 

その緊張関係の結果として、裁判官として出世する人は行政交渉ができる人がであり、そうした人は行政寄りの視点ですので、行政とは敵対しない“官僚寄り”の視点になるようです。

 

裁判所も行政組織の一部として、既得権益の構造に組み込まれてしまっています。

(ちょっと違うかもですが、最高裁の判事も、なぜか出身母体で枠が決まっていたりしますよね。検事枠何人、日弁連推薦枠何人、学者枠何人、官僚枠何人、みたいな。笑) 

 

裁判所で出世すると、例えば最高裁判所事務総局の局付として司法行政を担うわけですが、そうした人たちは、裁判の判決を実際に書くというよりは、“司法行政”をしていることが主で、裁判がどうあるべき、こういう事例ではどういう判決を下すべき、といったことを考えている存在です。

 

だからこそ、住民側の視点に寄り添うというよりは、行政側の視点に立って判断がなされることが多くなってしまうんです。

 

しかし、すべての裁判官がそうしたことをしたいわけでもなく、現場でいたい人ももちろん多い(また理想が高い裁判官も多い)なかで、なぜ裁判所という組織が右に倣えという組織になってしまうのでしょうか。

 

それの記述も法服の王国で描かれていましたが、

裁判を書くことは、めちゃくちゃ大変だそうで、年を取ってくると、カラダに応えてくるそうです。

 

だからみんな年を取ったら行政の方に回って、ゆっくり過ごしたい。ですが、地方の裁判所にずっといると、一人で案件をたくさん抱えて、裁判を書き続けなければなりません。それを避けるために、また東京・大阪などの都市に戻りたいために、出世を気にする構造になってしまうようです。

 

という、司法の行政化の構造がある中で、原発訴訟の冒頭の話に戻りますが、

今回の判決も、別に歴史上意味があるわけではなく、どうせ高裁で逆転敗訴になるんだろうな、、、と若干あきらめの気持ちで見ている、というのが正直なところです。

 

もちろん、わずかな勝機や、勝つことで議論を巻き起こそうと原発訴訟に携わっている皆さんには敬意を表します。すごいことだと思います。

 

ですが、今回の裁判の判決を出した森鍵一裁判長が、不当な扱いを受けないように監視すべきです。

 

今回は、あくまで制度論の話であり、原発の賛否などにふみこんでいるわけではありませんが、以前こんな記事を書いているので、左寄りっぽく思われるかもな~~と思いつつ。

原子力発電には、反対です。 - 三男日記

 

 

ただ、日本の司法は行政と戦うときには、あまり助けてくれないようです。

その場限りすぎるGo To

Go Toトラベルの適用除外をどこまで入れるのか?が問題になっています。

 

大阪発と札幌発もそれぞれキャンセル扱いになったようです。

 

先日の記事で書いた通り、Go Toはそこまで原因じゃないんじゃなくて、実感として気が緩んでいることが原因じゃないかと考えています。(数値として示せているわけではないですが)

 

京都とか観光地ですが増えてないですし。増えているのは人口が多い都会ばかり。

 

GoToを回すには75歳の年齢制限を掛ければすべて解決する – アゴラ

 

この記事は、今回の第3波の犠牲になっているのは高齢者が多いため、高齢者の行動制限を導入することが移動の自由や経済の観点から最良ではないのか?ということを実証している記事です。

 

実際、全体でGo Toの動きを止める必要はないと考えます。

 

大阪の病棟の重症ベッドの使用率は半分近くまで上がっていましたが、重症者の多くを占める高齢者の部分だけしっかりケアしていく、周りに高齢者がいる人は外出を控える、などの工夫が一番クリティカルなのではないかと考えます。

 

 

ただ、今回のGo Toは、そもそも急ごしらえの施策とはいえ、危機管理がちょっと甘い気がします。数値が上がって第3波が来たらどうするのか?どう制限をかけるのか?のシミュレーションが全くできていませんでした。

 

その場限りの対応を繰り返してる感じ。

 

多分、感染症を抑える側と、経済を回す側の連携がうまくとれていなくて、それぞれがやりたいこと・言いたいことをやって、後手後手になっている。

 

最初の時点でも、事務局立ち上げで混乱していましたし。

 

冬が来て、第3波が来るであろうことは予測できていたわけで、またあたふたしている印象。Go Toの制度設計も、第2波が終わったら次の流行はもうない、というかのような設計で、一気にGo Toキャンペーンの利用を促し、一気に移動や接触を解禁していますが、段階的な予約や分散の設計がもう少しあったらよかったんじゃないかと思います。

 

ホテルや飲食店での対策はしっかり取られているわけで、これ以上の対策は難しいとして感染拡大を許容するのか、感染抑止のために人数制限をいれるか、キャンペーンを中止にするか。

 

例えば、Go Toの利用を総額ごとにタームで分けて、この期間内に利用できる枠が使い切られたら次のターム、といったような形で、一定の人数調整(調整弁の仕組み)もあってもよかったんじゃないかなと。今になってキャンセル料負担がどうのこうの、とかは、税金がもったいなすぎます。

 

Go Toトラベルや、Go Toイートなど、民間事業者の力をうまく利用して面白い政策だなと思っている分、オペレーション面まで回っていなかったのがもったいないなと。

 

また、政権のコミュニケーションとして、Go Toにこだわる本音をもっとさらけだしてもいいんじゃないかと。

 

感染拡大を防止することが一番大事だとはしつつも、経済も大事だ、という姿勢をもっと前面に出したらいいのに、と思います。国民も、そろそろわかってきているはずです。批判ばかりする野党と、批判ばかりするメディアのように、理想論だけでは国は回らなくて、経済も回さないと苦しくなってしまうんだ、という、総理が見ている景色を共有してくれたらいいのにな、と思います。

 

トップが見ている景色と同じ方向を向いてもらう、ってすごい大事な気がするので。

 

つらつら書きました。。。

”芋”が大統領になる物語

最近、ネットフリックスのサバイバー~宿命の大統領~にはまっています。

 

毎日ネットフリックスにくぎ付けになり、3連休中、外出もせずほとんど見続けていました。

 

www.netflix.com

 

ただ、周りの人に伝えても、え?何それ?と返ってくる始末。視聴率、ほぼゼロに近い。笑

 

いや、でもストーリーがまず面白いんです。

 

設定は、アメリカ合衆国政府の中に“指定生存者”が指名されるというところなんですが、まずそこから秀逸です。笑

大統領が議会で演説する際に、行政府、議会の関係者がほとんど議事堂に集結してしまうことから、万が一が起こったときに備えて、大統領職を継承する指定生存者として、トム・カークマンが指名されます。

 

トム・カークマンは、住宅都市開発長官という主流ではないポストで、かつ前職は学者という、政治とは全く無縁のポストの人間でした。指定生存者は、万が一に備えた存在ということで、内閣としても重要ではない人を指名する存在だったのです。

 

しかし、そのまさかが起こり、議事堂が爆破され、政府関係者は行政府/議会/最高裁含めて全滅。カークマンが、大統領に就任することになります。

 

こんなやつが大統領になれるのか?というホワイトハウス職員、軍関係者、議会関係者(議会にも指定生存者がいる)と戦いながら、

カークマンが大統領らしく振る舞って、迫りくる国家の緊急事態を切り抜けていく、という話です。

 

 

いや、僕もまだ途中なのですが、これがハチャメチャに面白いんです。

 

アメリカの政治ドラマはハウスオブカードを見ていてリアリティがものすごくあって作りこまれているので面白いと思っていたのですが、サバイバーは、そうしたリアリティに加えて、“ストーリー”が面白いんです。

 

 

思うに、“芋っぽいやつが、成長する”ことが僕的に共感できるんじゃないかと。

 

カークマンや、周囲の側近含め、なんか“芋っぽさ”が漂うんですよね。周囲になめられるというか。

 

まさにカークマン自体がそうで、

元大統領のモスには「君は大統領の器ではない」と直言されたり、

軍人には反抗されたり、

海外の首脳には「選ばれていない大統領だ」と言われたりと散々なんですが、

でも、自ら与えられた職務を最大限こなそうと、必死で国家のために奉仕しようとします。

 

途中から首席補佐官を務めるエミリーは、元々カークマンが住宅都市開発長官時代の補佐官で、カークマンの大統領就任と同時にホワイトハウスに入ろうとし、周囲になめられていましたが、実力で補佐官の座を勝ち取ります。

また、報道官のセスも、能力は優秀なのに、ジョークがつまらなかったり、若干の不器用さが残るなど、残念感が漂いますが、でもなんとか大統領のために尽くそうと全力を尽くします。

 

 

この物語は、決してホワイトハウスのエリートの物語ではなく、

本当はホワイトハウスで幹部なんかやれるはずもなかった人たちが、団結して国家の難題に挑んでゆく過程で成長していく物語です。

 

自分もtheエリートでもなく、芋っぽい人間なので、そういう部分に、めちゃくちゃ共感できるんだと思います。

 

ああ、こういうやついるよな、と。

 

だから、単に政治のエリートドラマとは違います。ハウスオブカードとは正反対かもしれません。(ホワイトハウスを巡る権謀術数という点では共通していますが)

 

どこか人間臭さが漂う、この物語。個人個人のドラマと、またその団結が最高。

 

並行してFBIの捜査も描かれていますが、人間味あふれる主人公周辺と、そうしたハラハラさせる様子のバランスも飽きさせなくてまたちょうどいい!

 

僕はまだシーズン2の途中ですが、毎日見続けようと思います。

 

ただ、最近サバイバーで頭がいっぱいになりすぎて、今朝は自分が首席補佐官になっている夢を見ました。