三男日記

愛知県蒲郡市出身、今東京におります三男です。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

Go To見直しの前にもっとやれることはないのか。

コロナ禍での緊急事態宣言からはや4カ月が過ぎ、日本の総理も変わり、アメリカでは大統領選挙が、大阪では大阪都構想住民投票があるなど、世界は前に進んでいる感じがします。

 

Go Toを見直すのかどうか、が政府の喫緊のテーマになっていますが、コロナウイルスを巡る一番の社会的な課題は、「常態化」にあると思います。

 

 

Go Toが感染拡大の原因として責められていますが、Go Toが悪いのではないと思います。

 

とりわけ、Go Toトラベルは旅行促進、という意味で、普段していない人がするような施策になっていると思いますが、ちゃんと感染防止策が取られているところが割引になっています。

Go Toイートなどについては、別にこの施策がなくても今やほとんどの人が外食をし、飲み歩いています。

 

今や普通に外出して、普通に会社で仕事するようになってしまっており、結果として感染経路も、クラスターがわからない市中感染が増えているとのことです。

 

医療にかかわる方以外にとっては、普通の生活を送ることができている中で、メディアが伝えるコロナウイルスの感染者数のニュースはもはやノイズでしかないのかもしれません。普段コロナウイルス感染を気にして行動を控えろ、という方が違和感を覚えるようになってしまっています。

 

とりわけ致死率が高いわけではないこともあり、危機感を持ちづらいコロナウイルスと共存していくことが求められようとしている中で、「常態化」してしまうことは、やむを得ないことなのだと思います。

 

 

政府の意思決定としては、経済支援(経済活動を復活させる)と感染拡大の防止(医療崩壊を防ぐ)のバランスが求められている中で、“アクセル”であったGo To施策の一時休止を決断せざるを得ないことになったのだと思いますが、

ただ、僕は、そうした施策を停止することが問題の解決にはつながらず、経済活動と拡大の防止を同時に進めていくやり方が求められていると思います。

 

Go Toで対象になっているのは、コロナ禍で大きなダメージを受けた業界が対象になっていて、これを止めてしまうことは、さらなるダメージを背負わせてしまうことになりかねません。

 

そういう意味で、経済活動と感染防止対策の両立がより求められているわけですが、それをしていく上での肝は、人の意識を常態を非常態に戻す、ことにあるかなと。

 

今、朝電車に乗ると、コロナ前の雰囲気に戻りつつあります。誰もが朝からオフィスに行き、対面で仕事をし、家に帰る、というコロナ前の平日です。

 

そのため、テレワークを推進するなど、対面する機会を可能な限り“オンライン化”することが重要になってくると思っています。

(その危機感を煽るためとして、緊急事態宣言を出し直すことも考えられます)

 

テレワークの推進という点で言うと、まずは国・行政からテレワークを率先して進めていくこと。

 

それによって、民間企業にもテレワークをお願いし、可能な限り、国からの財政支援をすること。

 

働き方改革に協力した企業も感染拡大の防止に協力してくれた、ということではあると思うので、そうした文脈で、何かしらの助成金か、税制における減税施策を取っていくことが考えられるかなと思います。

 

また、医療のオンライン化も急務で、医師会が色々提言していますが、診療のオンライン化を規制緩和して進めていくことが、これからの日本にとっても、今の医療体制にとっても大きな効果があると思います。診療所や病院に人が集まることは極力避けるべきです。

 

その他、ハンコ問題もある通り、行政窓口のオンライン化も、上記の行政のテレワーク化と並行して進めるべきです。教育のオンライン化は、生徒の家庭の所得格差もあったりして難しい部分があるかと思いますが、こちらも規制緩和して進めていくべきだと思います。

 

そうした、日常部分のオンライン化をしたうえで、Go Toのような、消費促進策を合わせて取り入れることが、コロナ対策のアクセルとブレーキを両方踏むことであり、

かつ人の意識としても日々の行動にできるだけ気を付けつつ、消費もしっかりしよう、というバランス感になるのかなと。

 

 

なので、僕は、単にGo Toをやめてしまうと経済活動の回復が遅れてしまうような気がして、職場のオンライン化に代表されるような、

人の接触を減らしつつ、人の危機感も作れるような施策が、他にもあるんじゃないか、Go To見直しよりも先にそっちをまずやるべきなんじゃないか?と思った次第です。

幸せってなんだっけ?

都市と地方どちらで戦うのか?

生きるうえでの大事な考えどころかな、と思うことが増えました。(まだ若いのに。笑)

 

大学生時代に小規模ながら地元で戦ってたことがありますが、やはり競争が激しい都会と比べて、自分自身が目立ちやすい環境にあると感じました。人口が多くない分、目立てるチャンスは多いかもなと。

 

でも、都会だとそうはいかない。

しかもこれからは日本人同士だけではなくて、海外の人と本格的に戦っていく時代です。

 

IGPIの冨山さんが

ローカルで行くか、グローバルで行くか、30代半ばで決めるべき。

と言及しているのと少し近いかもしれませんが、

これからの時代、都会が圧倒的に進化をし続け、都会と地方の差が広がっていきそうな気もするので、

このまま都会の文化で終わりなき旅を続けるのが幸せなのか、地方で一定のコミュニティの枠内で暮らしていくのが幸せなのか、ちゃんと考えないといけないなと思います。

 

ローカルでいくか、グローバルでいくか。30代半ばまでに人生の選択をせよ - THE ACADEMIA

 

まさに自分のポジショニングを考えることと近いと思いますが、

このまま都会型社会に身を置いて自分が何をなせるのか?他人との勝負に勝てるのか?

ということとキチンと向き合わないといけないなと。


(僕はそれを少しだけ考えて、関西で働いてみる選択を希望しました。)

 

働いていると、上記のようなことを考える間もなく、結果として一体自分の幸せは何なのか?ということを見失いがちなことに気づきました。

 

もしかしたら、敢えて自分で考えないように蓋をしているのかもしれません。

 

でもちょうど最近先輩と話していたら、

若いころに残業ばっかしていて、寿命だけ縮まった気がする」とおっしゃっていて、その話がめっちゃ印象に残り、自分の幸せを考えるって、大事だなと。

 

とモヤモヤ考えていたら、昔聞いたこんな言葉を思い出しました。

 

パパブッシュの妻バーバラブッシュの言葉です。

人生の終わりになったとき、テストに合格しなかったとか、裁判に負けたこと、取引をまとめられなかったことなどを、決して後悔しないだろう。夫や子供、友人、あるいは、親とともに過ごさなかった時間を後悔するのである

 

うん、、、自分にとっての幸せが何か?って、めちゃくちゃ難しいですね。

 

参考:

Whatに熱くなる都市、Whoに熱くなる地方|村井裕一郎|note

不倫報道をめぐる世の中の空気感

最近マッチの不倫報道が、表に出ましたが、、、。

 

今回マッチの場合はあまり表のワイドショーで取り上げられてはいませんが、どうなんでしょうね。

 

不倫報道

 

不倫した芸能人が、「世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」と謝るやつ、前から気になっていたのですが、何を誰に謝っているんでしょうか?

 

不倫報道ですが、なんかいろんな論点がありますね。

 

ちょっと前まではめちゃくちゃたくさん聞いた気がしますが、最近はちょこちょこ耳にするくらいでしょうか。

 

「不倫報道なんて誰のためにしてるんだ」「そろそろやめたらいいんじゃないか!!」という批判はありつつも、僕は報道自体はアリだと思っています。

 

なぜなら、なんだかんだで、不倫報道って、観ちゃうんですよね。

 

実際、ワイドショーで事情をちゃんと把握しても、何もいいこともないし、何も身になるものは得られないんですが、なんも考えずに見れてしまうんですよね。Yahoo!ニューストップに挙がっていても見てしまいます。

 

 

すみません、冒頭の話に戻ります。

 

芸能人が、「お騒がせして申し訳ありませんでした」は、誰に向けて謝っているんでしょうね。

 

ずーっと気になっていました。


芸能人は、カメラに向かって、視聴者に向かって謝っているんだと思いますが、別に、僕は怒っていないよ、と。

 

例えば、企業の産地偽装問題が発覚して、などで社会に謝るのはわかります。嘘ついていてごめんなさい、みたいな。

 

ですけど、芸能人が社会に対して謝ることになんの意味があるんでしょうか。嘘ついたわけではないですし。

 

もちろん、スポンサー企業やテレビ局などには迷惑をかけてしまっている部分が大きいと思うので、そちらに対する謝罪はしてもらったうえで、社会に対して何が悪いか?という点で言うと、何に謝っているんでしょうか。

 

「お騒がせして」ということが謝罪のメインだとすれば、私たちはやむを得ずお騒がせされているのか?という話になりますが、僕個人的には、お騒がせされて迷惑やわ~~というよりは、むしろ、話のタネをもらっている、というような印象があります。

 

(他人の不幸、メシウマ~~とまではいかないですが)

 

「お騒がせして」は、むしろちょっと心をざわつかせてごめんなさいね、みたいなニュアンスなんでしょうね。

 

純粋に騒いだ!というよりも、不快な気持ちにさせてごめんなさいね、というか。イメージを裏切ってしまい、すみません、ということでしょうか。

 

とここでこんな記事を出してみます。

東出不倫報道、三浦瑠麗氏「民法の見直しを」にツッコミ殺到 – アゴラ

 

芸能人の不倫が、そこまで不快に思う人ってどこまでいるんでしょうか。

 

ちょっと今の世の中が異常すぎるような気もして、極論、夫婦内の問題のような気がするんですよね。騒ぐのはいいですが、叩くまではいかなくていいのかなと。

 

多分、三浦瑠璃氏は、芸能人が不倫で叩かれたところで全く世の中が変わっていない(いつの時代も不倫している芸能人がいる)現実を捉えたうえで、リアリズム的に話しているのだと思います。

 

僕はここまでは同意しませんが、僕は今の不倫報道の在り方はちょっと過剰すぎるのかな、という気がしています。

 

不倫を許容すべき、というわけでは全くなく、不倫→ゲス→叩く、みたいな単純な図式ではなく、多様に意見が飛び交うような、そんなテーマになってもいいのかなという気がしました。

テラスハウス騒動を考察する

テラスハウス、終わってしまいましたね。。。

 

木村花さん訃報 スタジオの発言から考えるテラハの問題点|Sisterlee(シスターリー)|note

 

さて、この騒動、ちょっと前になりますが皆さんどう思われますでしょうか。

 

僕は正直言って、責任の一端は木村花ちゃん自身にもあると思っています。

 

もちろん前提として、SNSを通じて徹底的にバッシングした顔の見えない名もなきユーザーが悪いのは当たり前で、ひどい言葉遣いや行き場のない匿名性など、問題は山ほどあると思っています。

 

その認識に立ったうえで、この問題、僕は番組側には非はないんじゃないかと思います。

 

世の中では、テラスハウスという番組が出演者へのいじめを誘発する構造になっていたんじゃないか?という論調が目立ちます。フジテレビ叩きも多いです。出演者叩きも多いです。

 

でも、それは番組に罪をなすりつけてるだけで、違うと思うわけです。

 

だって、テラスハウスって、ずっとそういう”出演者をいじってきた番組”で、新しく始まった番組ではないからです。

 

また出演者はそもそも出演を断ることもできたはずですし、なんなら自分から出演を応募している人も多いと思います。この番組が色んな人に見られて、恋愛過程を評価されて、芸能人たちにいじられて、結果有名になって、、、というプロセスを魅力に感じて、出演者は自らの責任で応募して、テラスハウスに出演を決めたはずです。

 

番組に出演を決めるということは、ある種”芸能人”になることですし、芸能人になることは”有名税”というか、一種のリスクが生ずると思います。

 

それは有名になる対価であって、ガマンしないといけない(または嫌ならフェードアウトしないといけない)側面もあると思います。

 

(もちろん、だからといって叩いていいというわけではなく、過剰に罵倒したりしてはいけない、ということは大前提ですが)

 

死人に鞭打つというか、死人を追及するのは感情的に冷たいように思えますが、僕は、木村花ちゃんが自殺してしまったからと言って、番組の責任ばかり追及すべきではなく、木村花ちゃんにも自身の出演するという決断が甘かった、という責任の一端が認められるべきだと思います。

 

なのに、この騒動ではテラスハウスという番組だけが悪者になり、それで番組が終了ということになってしまっていて、これでは日本のバラエティはどんどん肩身が狭くなりつまらなくなってしまうのではないかなと思っています。

 

すごい冷たい人間っぽいですが、僕はこう考えています。テラスハウスファンの皆さんなどどう思われますでしょうか。

 

ただ、テラスハウスという番組を巡り、なくなってしまった方が出たこと自体、悲しいことであることは目を背けてはならない事実です。

 

1人のファンとして、木村花さんのご冥福を心からお祈りいたします。

ポリティカルコレクトネスの弊害

JALが機内放送でLadies and gentleman を使用するのをやめる」というニュースですが、うーん、これどうなんでしょう。。。僕はイヤだなと思っちゃいますね、こういうの。

 

ladies and gentlemen きょうから変わりました 日本航空 | NHKニュース

 

多様な性別に配慮する、ということなんでしょうけど、これは【ポリティカルコレクトネス】の一種だと思います。

 

ポリティカルコレクトネスとは、Wikipediaの定義を借りれば、

性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正・中立な言葉や表現を使用すること

ということで、

具体例で言えば、看護婦を「看護師」に言いかえたり、黒人の意味で使用されていた「ブラック」という言葉を、侮蔑の意味が込められていた歴史から「アフリカンアメリカン」と言いかえる、といったものを想像すればわかりやすいでしょうか。

 

僕がイヤだなと思う理由は、こういうのってきりがないなと思うからです。

 

僕は、言葉に含まれる意味にも気を付けて言葉を使った方がいいというポリコレの趣旨自体には賛成です。やっぱり言葉の持つ力は大きいと思いますし、自分が何気なく使った言葉が、相手を傷つけてしまうこともあるかもしれません。

 

でも、これって実は世の中全体が思考停止してるとはいえないか?と思うわけです。

 

例えば、民間企業がサービス内や広告内でポリコレに注力するのは炎上リスクを避けるためだと思いますが、そうしてリスクを避けようとするあまり、面倒くさいからもう使うのやめちゃえ!!みたいになっちゃってるんじゃないかと。笑

 

こういう問題の本質は、【思いやり】だと僕は考えます。

 

思いやりというのは、言葉を使う人がその言葉によって相手を傷つけないように配慮するという思いやりと、その言葉を言われた側(その言葉を聞いた周囲の人も含む)の、言葉を使った人に対する思いやり、の2種類です。

 

前者は当然のものだと思いますが、僕がとりわけ大事だと思うのは後者の方です。

 

相手が何を意図して言おうとしたのか?本当に害意があったのか?どういう文脈で使われているのか?といった、言葉を使った人の意図を深読みして思いやる、ということで、いちいち「はいそれ言った~~アウト!!」といった言葉狩りをしない、ということです。

 

2年ほど前、ダウンタウンの年末笑ってはいけないで、浜田の顔を黒塗りにする演出が大炎上しましたが、それ自体も、はい、黒人をバカにしてるよね。と短絡的に糾弾するのではなく、あくまで演出としてエディマーフィーのマネをしていた、と解釈して黒人自体をバカにする意図はなかったんじゃないか?と考えたりした方がいいんじゃないかと思うわけです。

 

相手がどういう意図でその言葉を使っているのかを踏まえずにいちいち糾弾してたら、それこそリスクを恐れて、みんな自由な発言をできなくなってしまいそうで、最終的にはお互いに不寛容なギスギスした社会になってしまうんじゃないかと

 

もちろん、時代ごとに常識とされることのアップデートは必要ですし、その言葉がこういう意味にもなってしまう、ということを理解することは重要だと思います。

 

ですが、必要以上に糾弾したり、言葉を狩ってしまうことで、みんなが窮屈になってしまうんじゃないかなと思ってしまいます。

 

今のテレビが面白くなくなってしまったとされることにも、そういうリスクを避けて思考停止している世の中に適応しようとしたことが背景にあるんじゃないでしょうか。

 

ポリコレの元々の目的は、ダイバーシティを認め合い皆が生きやすい社会を目指したい、ということだと思いますが、必要以上に言葉狩りをしてしまった結果みんなが生きづらい社会になってしまったら元も子もないなと。

 

ということを考えているんですが、皆さん、どう思われますでしょうか。

男女平等の難しさ

歴史上、女性は投票権も持っていない状態で政治的には差別されてきたという解釈がありますが、僕はこの記事を見て、なるほどなと思った節があります。

 

「女も戦場へ」は何をもたらすか:日経ビジネス電子版

 

以下は記事からの引用です。

 

男女で起こした戦争は男女で責任を取らなくてはならない。戦争賛成反対に関わらず男性だけを強制的に徴兵させて、女性は戦争に賛成した者も戦争に行かず、最終的に「民間」の男女が死んだら「罪のない女性が巻き込まれた」(今はこの表現は減ってきているが)などと言わせてはならない。

 

男女同権が叫ばれつつも、多くの人の”ホンネ”の部分では、男が稼いでなんぼ、男が働いてなんぼ、という固定観念が根強く残っているのが事実じゃないでしょうか。

 

(こんなことを書いている自分も思っている節があることを告白します)

 

”男女不平等の歴史”とは、社会生活上の側面のみに焦点を当てているだけであり、歴史的に見れば、命を懸けて軍隊に徴兵させられ、戦場で戦ってきたのは「男性」であったことは事実じゃないでしょうか。

 

新渡戸稲造「武士道」にて、英国の哲学者ハーバートスペンサーによる、軍事社会では必然的に夫婦間の中で婦人の地位が低くなるとの論が引用されています。

 

確かに、日本は江戸時代まで武士の時代がず~っと続いており、実際武士階級の中では女性はそばに控える存在だったと考えられます。

 

ただし、スペンサーは、そうした男女の不平等は社会の産業化によって改良される、とも述べていて、高度成長期を経て日本が経済大国になった今でも男女のジェンダーギャップが解消されていない現実を是認していいはずはありません。

 

真の意味での”男女平等”という定義にもよりますが、それを実現するにはどうすればいいんでしょう。

 

多分、男女不平等という現状認識を、男性が加害者、女性が被害者、という一方的な対立構造で見ると本質を見誤る気がしています。

 

そうではなくて、男性も女性も両方ともジェンダー差別の被害者なのだ、という被害者意識を持つことが問題を自分事化するうえで大事なんじゃないかと思います。

 

ただ、両性には確実に身体的性差が存在し、字義通りの”平等”というものは存在するわけではない、という「完全主義を捨てる」ことも男女平等を考えるうえで大事だと思いました。

 

男女平等って難しいですね、、、

わかりやすさ反対!!

先日、先輩の結婚式に呼んでいただき、石垣島に行ってきました。せっかく石垣まで行ったということでついでに白保海岸でシュノーケリングをしたんですね。

 

浅瀬で潜ってサンゴを楽しんでいたのですが、そのサンゴの中に、一本コンクリートの支柱が立っていました。

 

f:id:fujikei0720:20201110121557j:image

 

僕はそれは灯台の一種かと思い、気にかけていませんでしたが、急にガイドさんが、「あれは、石垣の負の遺産です」と言い出しました。

 

聞くと10年くらい前に、サンゴの上に新石垣空港を建設する計画があったそうなんですね。行政側は断固として進めようとしていましたが、住民の反対運動によって計画は中止、その時の建設中断の名残で、コンクリートの杭だけがいまだに残っている、それが支柱の正体でした。

 

ガイドさん曰く、住民運動で計画を止めた唯一の事例だそうです。(確かに、成田空港も、ダムも、住民運動によっては止められていないか・・・)

 

ガイドさんは、こうもおっしゃいました。

 

もし空港ができていたら、皆さんが今ここできれいなサンゴときれいなカクレクマノミとは出会えてなかったかもしれませんね」と。

 

という話、どう思われますか?

 

モヤモヤするんですよね。

 

ガイドさんの言ってることも一理あるけれど、中止にしたからと言ってそれが良かったかはわかりません。正直。

 

どちらかが絶対正義、ということが存在しないからこそ、こういう問題って難しいなと思います。

 

環境を守って、ここにしかないものを守るんだ!ということは大事なことです。

だけどそれでメシが食えるのか?と考えると、経済活動の方を優先して人を養っていといけない場合もあるわけで。とはいえ、費用対効果だけですべてを見ることも間違っているなあと思いますし。

 

それでいうとよく話題になるテーマでは、「米軍普天間基地移設」がありますが、やっぱり超ド級にプレイヤーが多すぎることがあんなに泥沼化させているような。

 

大学生時代に沖縄に行っていろんな方にお話を伺いましたが、辺野古の美しい海を埋め立てるということで環境は守らないといけない一方で、地元の土建業の人は仕事が欲しいからできるだけ埋め立てエリアが大きい方がよかったりするから海を埋め立てたいと考えていたり。

 

そういったせめぎあいが、今のごたごたにつながっているんだろうなと。

 

(さらに名護市と名護市辺野古地区の分断、普天間を早く閉じて欲しいと言いにくい宜野湾市の葛藤、交付金が欲しい沖縄県防衛省、外務省、首相官邸、米空軍、米海兵隊、、、などめちゃくちゃ複雑な連立○○次方程式が横たわっています・・・)

 

参考:

「普天間」交渉秘録 (新潮文庫) | 守屋 武昌 |本 | 通販 | Amazon

普天間・辺野古 歪められた二〇年 (集英社新書) | 宮城 大蔵, 渡辺 豪 |本 | 通販 | Amazon

沖縄の不都合な真実 (新潮新書) | 潤, 大久保, 章, 篠原 |本 | 通販 | Amazon

 

 

それでいうと、今の世の中は「わかりやすさ」が跋扈しすぎている気がします。

 

ナショナリズム的な二項対立」や

何日間で見につく教養!」とかもそうですし、

はたまた「おまえは何のために生きるのか?」「何のために働くのか?」「何をしている人ですか?」といった「自分が存在する意味」なんか求められたりして。。。

 

やっぱり一言でドーン!って伝えられた方が、耳障りは最高です。

 

でも、そのわかりやすさによって切り捨てられてしまうものもあるはずで。

 

うまく言い表せないような、いわば”わかりやすくない””なんだかわけがわからない”ことの方が実は大事なんじゃないかな、という気もします。

 

っていう、石垣島でモヤモヤした話でした。