日本の原子力発電への依存度は約2割だと言われます。
原子力は安全だ。
二酸化炭素を排出しないクリーンなエネルギー。
そんな原発広告を多く目にして来たこともあり、原発に対して悪いイメージは持っていませんでした。
2011年までは。
3.11の地震、大津波によって生じた福島第1原子力発電所の事故を機に、原子力発電が論点に上がることが増えました。
今や忘れ去られている感じがありますが、
時の菅直人首相が脱原発を志し静岡県の浜岡原発の停止を要請し、再生可能エネルギーの利用を促進する法案を提出したりと、3.11後は脱原発議論が盛り上がっていました。
卒原発を訴えていた日本未来の党という、政党として認めていいとかわからないほど選挙後すぐ解党した政党もありました。
しかし、野田政権、安倍政権と時を減る中で、原子力発電は日本のエネルギーのベースロード電源としての位置付けとされ、原子力発電推進は改めて国策としての既成事実となりつつあります。
原子力発電を推進するか否か。
すぐ運転停止にすべきか、10年後に廃炉にすべきか、など様々な立場があり、単純な二者択一が論点の設定として適切ではないとは思いますが、あえて単純化して考えてみます。
結論から言えば、僕は原子力発電には反対です。正確に言えば現状のままの原子力発電には反対です。
賛成派の言う通り、原子力発電はエネルギー政策には欠かせないものですし、エネルギー効率の点からも、原発のメリットは十分認識しているつもりです。安定した電源になりうることも魅力でしょう。
それはわかるけど、わかるけど僕は反対です。
理由は2点あります。
1点目は燃料の処理、
2点目はリスクの大きさです。
まずは1点目の、燃料の処理から。
原子力発電は、よくトイレのないマンションと例えられ、この国の原子力サイクル計画は、破綻しています。
青森県六ケ所村の再処理工場はうまくいかず、中間貯蔵施設に使用済み燃料が貯められている状態だと思います。
原発事故でよく知られたように、原発は多大な放射線を持つ使用済み核燃料を処理する必要があるのに、その使用済みの燃料棒を最終的に処理する場所が決まっていない。
今貯蔵しているのは、
上手くいく見込みのない再処理サイクルが稼働するまでの「中間」貯蔵であり、受け入れ自治体も、最終処理を受け入れているというわけではありません。
言ってしまえば、まやかしです。
出口がないまま動き出すとは、なんと無責任なのでしょうか。いかに原子力発電がエネルギー安全保障の点から優れているとはいえ、使用済み燃料の処理場所が決まっていないのに使用済み燃料を出し続けるのは、意味不明です。
核燃料サイクルの要であった文科省が所管していたもんじゅも、結局多大な予算を投じられた挙句、やっと断念されました。
どんな理想も、現実の前には説得力がないように思えます。
でも仮に1点目が、改善されて処理先が決まったとしましょう。
でも、僕はやっぱり反対なのです。
それは、2点目。リスクの大きさです。
どう考えても、原発のリスクは大きすぎる。
福島原発事故を見れば明らかでしょう。原発が少しでも起きたら、街が吹っ飛びます。
2017年の夏、福島の浪江町に行った時の衝撃が今も忘れられません。
街がなくなるとはこのことかと思いました。
建物は朽ち果て、人はほとんど誰もいないのです。
唯一、街の再興を期して現地で不動産会社の所長を務めている方にお話を伺うことができました。
浪江では、原発処理の作業員用にマンションを用意しているということでした。
一般の住民の方はもう各地に散り散りとなり、その方も家族を避難場所に残し、単身赴任で浪江町で働かれているとおっしゃっていました。
その方は、以前には浪江に住まわれていたということですが、当時の人のいる街並みがもう2度と戻ることはないだろうね、と本当に寂しそうでした。
避難指定は解除されてはいますが、元の浪江町の活気は一生戻ることはないと思います。
恐らく、そういう悲劇は他にも起こっていますし、原発事故でも下手をして原子力格納容器が壊れてしまっていれば、東京まで同じ被害に遭っていた可能性も十分あったわけです。
それが起きていたら、恐らく、
「under control」では済まされない、日本崩壊の危機だったと思います。
本当にあと一歩のところで救われました。
さて、日本は地震大国です。
多くの原発の近くには断層の存在が指摘されています。
そんな国で、また同じような事故が起きたら、また街が消えるのでしょうか。
「想定外だった」を繰り返すのでしょうか。
しかし、「事故が起きないように世界最高級の安全基準である」
と同じ過ちを繰り返そうとしています。
原発を推進する派の経済産業省の人は、貿易収支や経済効率の観点から、原発は必要だと推進し続けます。
しかし、一歩間違えれば街が消えるリスクを十分に認識しているのでしょうか。
そのリスクを過疎地に押し付けて、見て見ぬ振りをするのでしょうか。
リスクがあるからこそ、都市部からは離れたところで、かつ多大な補助金をつけて、過疎地に受け入れさせるわけです。
原発の値段は安いと言われますが、多大な事故処理費用、賠償費用を含めたら、安くなんてありません。
そして何より、費用に換算できない被害が大きすぎます。周辺の町に住めなくなってしまうこともそうですし、福島の野菜への風評被害、東京五輪の招致で首相がわざわざ「under control」と言わねばならぬほど日本全体への風評被害もあります。
無理やり安く見積もろうとしなくても良いのではないでしょうか。
ドイツは脱原発へ舵を切りました。世界も原発のリスクを認識しつつあります。
一方で、そうした世界の潮流に逆らうように進められる日本の原発輸出政策は、ベトナム、トルコと見事に失敗しています。
東芝が経営危機に陥った要因と1つは、経産省の原発政策に追随したことでしょう。
東芝はウェスチングハウスを買収し、結果として経営危機に追い込まれました。
日本では、脱原発が左翼系と結びついてしまったことが悲劇かもしれません。少しイデオロギー論争の様相を呈しているのです。
しかし、小泉元首相も訴える通り、そもそも原発はリスクが大きいものです。
原発の周囲には電事連、メーカー、大学、建設会社、政治家など、原発でメシを食う既得権益が沢山あります。もしかしたら、原発の広告を担う広告代理店、テレビ局も利権に巣食う1つだったのかもしれません。
この国は、原発によって滅ぶ危機に瀕していても、まともに反省をせず、次なる原発政策に邁進していこうとしています。
エネルギー政策は、国の行く末を決める根幹です。
根幹だからこそ、マクロな国家戦略だけではなく、ミクロな視点を持つべきですし、原発に関して言えば、2011のリスクを「過大評価」した方がいいと思います。
日本は唯一の被爆国であり、原発事故も経験した国です。そして何より、世界はクリーンエネルギーに舵を切りつつあるのですし。
まあ、そうしたマクロな視点はもちろんですが、
一番言いたいことは、「原発のリスク」を直視した方が良いのではないか?ということでした。