先日、長野に行って来ました。
長野では、スノーモンキーとやらを見てきました。
20分くらい雪道を登り、自然の雪山と共存するサルを見ました。
動物園の檻的な感じではなく、僕らが天然のサル山に足を運ぶ、というイメージです。
そこには意外と外国人観光客が多く、驚きましたが、そこで人気だったのは、雪山で温泉に入ろうとするサルでした。
皆、カメラを持ち、サルが温泉に入る瞬間を今か今かと待ち構える。
それ以外にもちょっとでもアクションがあれば、皆パシャパシャとサルにカメラを向けるわけです。
でも、不思議ですよね。
サルも人間も、元々同じ先祖です。
それなのに、今この瞬間は、人間がサルを「カメラ」で撮ろうとしていて、逆にサルは人間によくわからない黒い機械を向けられている。
サルは何のことだかわからないと思います。
まず、その手持ちの機械何?
あと、なんでそれを向けてんの?
的な。笑
というか、そういうのって、カメラにとどまらないですよね。
そもそも人間は服を着ていて、髪もセットして、靴も履いて。
建物を建てて車や電車を操っている。
サルが僕たちをどのように認識しているかはわかりませんが、どう思ってるんでしょうね。
人間が種的にまだサルと近かったころの記憶を持ってるサルなんていないはずでしょうし、今生きているサルはほとんど人間文明が高度に発達した後に生まれたサルでしょう。
(DNAにはかつての、自然のままだった記憶が刻まれているのかもしれませんが‥‥‥)
もしかしたら、
自ら開発した技術の虜になり溺れる人間を見て、あざ笑ってるのかもしれません。
進化というのは、わからないものだと思います。
ちょっと視点がマクロ的過ぎたので、ミクロな進化を考えて見ます。
ミクロ的には、子どもから大人へと、年齢を経る毎に人は成長していきます。
知っている世界も増え、考えも深まり、進化しているとも言えるわけです。
しかし、僕は、その進化は、実は退化なんじゃないかと思っています。
例を出します。
例えば、算数。
計算の時、マイナス×マイナス=プラス、ということが、中学1年生の時、なかなか理解できませんでした。
今も感覚ではいまいち掴みきれていないところがあるのですが、今は当たり前のようにマイ・マイ・プラを使っています。
大人になるということは、まさにこういうことではないでしょうか。
当たり前とする知識(前提)が増えていく過程こそが、成長するということだし、進化だと言えるのだと思います。
しかし一方で、当たり前とする常識が広がることは、疑いを捨てるということでもあります。
子どもの時に気になっていた疑問が、最早「当たり前」として処理され、所与のものが蓄積されていく。
もちろん、その所与を元に、今度はより高次の物事を考えるということでしょうが、
一番大事なのは、何事に対しても、なんでこうなるのか?なんでなんで?という疑問を忘れないことだと思います。
大人になるにつれて所与の世界が広がることで、逆に疑問を持つことが少なくなっていくこともあるのだと思います。
そういう意味では、僕は子どもから大人になるということは、「退化」とも言えるんじゃないかと思います。
「退化」しないように、純粋な気持ちを持ち続けたいと肝に銘じたいと思いました。