三男日記

愛知県蒲郡市出身、今東京におります三男です。日常や社会について思ったことを書いていこうと思います。基本、空論・評論です。自分の勉強も兼ねてやってます。

受験勉強の意味とは。

2月は、受験シーズンです。

高校受験や、大学受験。首都圏であれば、中学受験も普通かもしれません。

 

さて、自分も中高生の時からずっと疑問だった問いを考えてみようと思います。

 

なぜ勉強をするのか」という問いです。

 

そこでの「勉強」は、学校から課された勉強を指すとして、「受験勉強」として話を進めます。

 

なぜ受験勉強をするのか。

 

 

受験勉強をする必要はどこにあるのか、という問いの根幹を構成するのが、

受験勉強は役に立たないのになぜやるのか」だと思います。

 

その問いに対しては、こういった答えが見られます。

日本史や世界史は、社会に出てから知ってると役に立つ。

二次関数の考え方が基礎になっているから

といった受験勉強でやる内容の価値の点からの答えや、

社会人になってから勉強し直したいと思う人が多いから、今勉強できることは幸せだ。

という、勉強そのものの価値の点からの答えもあります。

 

 

さて、本当でしょうか。

 

 

僕は、受験勉強で学んでいる内容は、正直言って、社会で生きていくうえではなんの役に立たないと思います。というか「余分」な内容だと思います。

 

三角関数なんてその最たる例だし、理科でいう岩石の種類なんて、一回も使ったことがないし、将来もきっと使わない。

 

 

しかも、もし仮に、受験勉強で学んでいることが社会に出るうえで必要な事項であるとしたら、お金持ちは東大生ばかりになっているはずですよね。(笑)

(幸か不幸か現実はそうなっていません。笑)

 

また、受験勉強が得意な人の価値はもっと高くなっているはずです。

例えば、現代文を得意な人はもっと教養に溢れた仕事をできるはずだし(現状受験勉強の枠を超えて活躍しているのは林先生くらい?)、お金をもっと稼げるはずです。

でも、現状塾の講師や模試の採点、添削業務はほとんどアルバイト作業で、大学生が片手間にやっているものが多いです。

 

 

ということは、受験勉強というもの自体は、受験勉強という世界(受験界)の枠内でしか生かせない内容であるということだと思います。

 

 

しかし僕は、受験勉強は必要ないということを言いたいわけでは決してありません

 

 

僕が考える受験勉強の意味とは、「何かに打ち込んでやり遂げる経験」です。

 

 

受験勉強の本質は、目標を立ててやり切ることを学ぶ、ということにあるのではないでしょうか。

 

1カ月後に迫った試験に向けて、今の自分に足りないところはこの単元とこの科目だから、そこを重点的にやろう。とか、

受験にはこの科目が必要で、○○大学にはこの単元の問題が頻出だから重点的に対策しておこう、この科目は本当に苦手だから最低限だけ取れればいいや。とか。

 

 

そういった、目標を立てて自分なりに工夫し、やり切る力を身につけるのが受験勉強だと思います。

 

だから、僕は正直その経験をしたかどうか測るための尺度は、「勉強」でなくてもいいと思います。

部活動のようなスポーツでも、趣味でも何でもいいと思います。

一人一人打ち込める何かに向かって、目標を設定し、自分なりにあがいて、前に進む経験を積むことが大事なのだと思います。

 

 

つまり、受験勉強でなくとも、その過程の中で考える経験をしたことが大切だと思います。

 

受験勉強でも、基本は覚える作業であるとはいえ、考える場面も多いです。

この問題はそもそも何を問うているのかを始めとして、どう解答を論理的にまとめるか、などです。

 

社会に出たら答えのない問いが待っていて、受験勉強を通じて、答えのある問いに対する力をつける、という話もありますが、

その問題に答えがある・ない、といったことは本質的な違いではなく

問いに対して問題を分析・分解して考え、答えにたどり着こうとする姿勢が一番大事だと思います。

勉強以外も然りだと思います。

 

 

では、なぜ現在その尺度の最たるものが勉強なのか

 

それは、前時代の名残かなと思います。

日本が明治時代に西洋に追いつけ追い越せで導入した学制、戦後焼け野原から再興を期して導入した六・三・三の小中高の教育制度。

 

学ぶ場が、「先生」という権威ある存在からしか提供されえなかった時代の名残で、学校に通い、講義を受けるということが今も社会の中心を占めているのではないかと思います。

 

 

なので、言いたいこととしては、

受験勉強の内容自体は社会に出て役に立たないけれど、受験勉強のプロセス自体は役立てることができるのではないか、ということです。

 

僕自身、中高生の時は頑張って勉強していましたが、勉強の意味を先生に聞いても、真剣に考えて答えてくれることはありませんでした

 

僕が東大に入る勉強を頑張れたのは、林修先生が、東大現代文の授業で、

受験勉強の批判をしたかったら、東大に入ってからにしなさい。

と言っていたのを聞いて納得したからです。

 

(少なくとも5科目やり切って、受験勉強という勝負に勝ってからにしろ、ということで、悪く言えば「負け犬の遠吠え」のようにならないようにしなさいという意味と解釈しました)

 

 

僕は、受験勉強の意味が見いだせなかったからこそ、受験勉強というものへの反骨心もあって勉強をして頑張った記憶があります。

 

 

受験勉強は大変です。

しかも受験勉強自体に意味があるのかと悩むこともあると思います。

 

 

でも、受験勉強に文句を言うのは、自分なりに何かを持ってからじゃないといけない気もします。

その何かは、勉強じゃなくてもいい。スポーツとか、趣味でも何でもいいと思います。

 

受験勉強の話になると、東大生は使えないとか、そういう話にもなりますが、それは教育の形が硬直化しており、学歴が全てのような価値観が流布し、偏差値という尺度が絶対化されてしまっているきらいがあるからだと思います。

 

 

受験勉強自体には価値がないからこそ、その受験勉強で学んだプロセスそのものを、他の分野にいかに応用できるか、が大学生としての重要なポイントなのかもしれません。

 

 

自分への戒めも含め、考えてみました。

 

皆さんはどう思うでしょうか。