僕は、2013年にTBS系で放送されたドラマ「半沢直樹」が大好きです。
堺正人演じる銀行員・半沢直樹が、巨悪の象徴である香川照之演じる大和田常務に立ち向かい、成敗するドラマです。
数ある敵を倒していくドラマの調子の良さに、スカッとした方も多かったのではないでしょうか。
僕は半沢が戦っている姿に釘付けになってしまいました。
さて、「半沢直樹」が大ヒットした要因の一つに、日本人の判官びいきがあると言われています。
Wikipediaの定義を借りると、
判官びいきとは、
「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」ことを指します。
半沢のように、支店長や常務という強い立場の者によって追い込まれた立場の人間に、日本人は味方をしたくなってしまうのでしょうか。
弱いものを助け、強いものを叩く。
「半沢直樹」だけではなく、ドラマ「下町ロケット」なども、主人公と敵の区別がはっきりしていて、非常に単純化され、どちらかに肩入れしやすい構図になっています。
例えば「半沢直樹」では、半沢が正義で、大和田が悪として描かれています。
そんな、日本人が感情移入してしまう判官びいきですが、
検察庁の特捜部による捜査です。
今まさに日産のカルロス・ゴーン事件で注目を浴びています。
特捜部は、政治家や官僚の汚職や、金融犯罪など、大規模な事件を手掛け、巨悪に立ち向かう正義の砦のような存在感を醸し出しています。
僕が記憶の限りで印象に残っているだけでも、
ライブドア事件、村上ファンド事件、小沢一郎事件、障害者不正郵便事件などがあります。
どの事件も、新聞やテレビによる
「いよいよ逮捕へ」
「家宅捜索へ」
「起訴へ」
など小刻みな報道を目にし、その結果として「巨悪と戦う検察」のイメージを僕はずっと持っていましたし、逮捕される人たちは悪者である印象がありました。
そこでの基本的な構図は、
正しく生きる人間を救うために、隠された悪事を暴く特捜部。
特捜部が正義で、逮捕されるものが悪だという、いたってシンプルな構図です。
小学生当時の僕は、その特捜部像にめちゃめちゃ心酔し、家宅捜索をしに行くスーツ姿の特捜部の人達に憧れたりもしました。
検察が頑張ってほしい!って本気で思ってました。
冒頭に言った、判官びいきと近いのかな。正義の象徴、みたいな思いを持っていました。
しかし、大学生になり、色々勉強して世の中のことを知ってみると、正義の検察対悪の容疑者、という単純な構図では語れないことがわかってきました。
どちらかと言うと、「戦ってる」のは、検察に「狙われた」側でもあるわけです。
裁判を経ていないのにもかかわらず、特捜部に狙われた(逮捕された)というだけで、メディアは犯罪者扱い、テレビカメラが付きっ切りでプライベートもなくなり、ましてや職業や地位も失います。
痴漢の冤罪に近いかもしれません。
メディアの論調(それは記者クラブを通して検察によって操られた論調であるわけですが)によって、世論はある人が逮捕されたらその人が大悪人であるかのように思ってしまいますが、実際日本は推定無罪の原則があります。
裁判を経るまで、有罪かどうかは確定しませんし、それまでは無罪が推定されます。
小沢一郎の陸山会事件では、最終的に小沢一郎は検察審査会による強制起訴の結果起訴されたものの無罪判決が出ましたし、逆に検事による捜査報告書の偽造が疑われました。(のちの内部調査によって記憶違いによる過失ということでうやむやにされました)
障害者不正郵便事件では厚労省元局長の無罪どころか、大阪地検特捜部による証拠改ざんが発覚し、前代未聞の不祥事となりました。
検察は、メディアを使って世論を喚起し、劇場型で捜査・逮捕・起訴まで進めていくとよく言われています。
社会全体を一つの劇場と捉え、正義と悪で二分し、世論をいわば判官びいき的な流れに持っていこうという手法は、検察に限ったことではないと思います。
劇場型政治で知られる小泉純一郎元首相の「自民党をぶっ壊す」(改革派と守旧派)なども同じかもしれません。
しかし現実社会において、正義と悪という単純化された構図で見るのは、非常に危険な気がします。
何が危険か。
それは、人の人生です。
また時には日本の将来がかかっていたりします。
検察の捜査の結果(これは正式な裁判の結果とは異なることに注意)、小沢一郎は総理の椅子を失いましたし、村木厚子元厚労次官は局長職とその将来を失いました。(最終的に事務次官になれましたが)
日産のカルロスゴーン元CEOも、日産・三菱自動車の役員職を解任されただけではなく、もはや日本における社会的地位を失いました。
確かに、世の中の論調を見ると、摘発される側が悪に見えますし、悪どさが目立ちます。
ですが、今生きている世界は、「半沢直樹」みたいなドラマではありません。
そこには血が通った人間がいて、それぞれの思いが交錯しながら進んでいる複雑な社会です。
現実社会を、正義と悪の対決といったように単純化してみるべきではありません。
「判官びいき」の色眼鏡を適用してはいけないと思います。
検察の例でいえば、必ずしも検察に逮捕される側が悪とは限らないということです。
というかそもそも推定無罪の原則があるはずです。
カルロスゴーンの事件についても、彼は有罪とは限りませんから、正義と悪に二分せず、公平に考える必要があると思います。
冒頭触れたように日本人が判官びいきしがちだとして、
現実社会の出来事に対して判官びいきのように正義と悪に単純化してしまう傾向を
「判官びいき病」(「半沢直樹病」とでもいえましょうか)とでも言い表すならば、
その半沢直樹病は、ドラマの中だけで済ませておきましょう。
その病気は、時に見ず知らずの人の人生を奪ってしまうこともあります。
検察庁の特捜部の具体例を用いつつ、
世の中を正義と悪に単純化してしまう「半沢直樹病」について考えてみました。