先に行われた沖縄県知事選挙では辺野古移設反対派の玉城デニー氏が当選し、また現在は辺野古の土砂投入に向けて着々と進んでいるなど、沖縄が揺れています。
そういう時、いつも辺野古移設反対派は、こういいます。
「沖縄に基地を押し付けるな。」
「辺野古の自然を守れ」
一方推進派はこういいます。
「普天間基地の危険除去が最優先だ」
僕は両方の言い分ともわかるし、両方とも言っていることは正しいと思っています。
一方で、この議論、僕は一生交わらない気がしています。
なぜなら、互いの論点がずれているから。
政府をはじめとする推進派は、危険度が圧倒的に高い普天間基地の早急な移転を最優先事項だと言い切り、辺野古に移設しないならどこに移設するんだ、という話を主張しています。
一方、辺野古移設反対派は、普天間基地の早急な移転に関しては言及せず、辺野古に基地を移転するな、というかそもそも沖縄に基地を押し付けるな、と主張します。
互いに言ってることはわかるんですよね。
でも、互いに互いの言いたいことを言ってるから、一生かみ合いません。
(多分この問題の混乱に関しては鳩山由紀夫元首相の責任が一番大きいと思いますが‥‥‥)
または、原発の話。
賛成派は、国のエネルギー安全保障が大事、クリーンなエネルギーが大事、と主張し、リスクに関しては自分たちの責任というより、原子力規制委員会等に丸投げしています。
(例:原子力規制員会が安全と言っているのだから、安全のはずだ)
一方反対派は、原発の安全性に疑問を呈し、危険なものを稼働させるな!と主張します。
一方の原子力規制委員会側も、リスクには言及せず、基準に適合しているかどうかを審査したまでだ、と言います。
互いが互いの一番の関心事に目を向けないため、かみ合いません。
または、集団的自衛権行使容認の話。
一方は日本の安全保障のため、アメリカとの同盟強化のためだといい、
片方は戦争法案反対、徴兵制反対!とかいう。
間接民主主義と直接民主主義をごっちゃにした、「民主主義ってなんだ」という主張さえありました。
この問題においても、全く噛み合っていないと思いました。
上記に代表されるように、
日本には、かみ合わない議論というものが多いと感じています。
それは得てして、
日本の行く末を左右しかねない大事な政治的問題であればあるほど、かみ合わないズレは大きいように見えます。
なぜなのでしょうか。
政治的な問題ですから、政治的な観点に絞って考えてみたいと思います。
1つの要因は、政党にあると思っています。
「与党と野党の職業化」です。
55年体制が確立して以来、野党は基本的に野党でありつづけ、与党(自民党)は基本的に与党であり続けました。
また、55年体制が崩壊し、小選挙区制が導入され、一時期は自民党が下野することもありましたが、結果として自民党が与党であることの方が多く、
歴史的な政権交代に成功して誕生した民主党政権が華麗に失敗して以来、自民党一強はより顕著になっています。
その顛末として、野党は野党として固定化してしまい、
野党として目立つために与党の批判をしなければならない、となるが、
与党になれないことはなんとなくわかるので批判は与党の目線ではなく、批判のための批判になってしまう。
(僕は今の立憲民主党の採決拒否などはその典型だと思っています。)
その結果が、この噛み合わなさにも影響してるのだと思います。
沖縄問題を例に出せば、野党は安全保障の視点などは本気で考えなくてもよいからこそ、辺野古の民意を聞け!とか、辺野古の環境を!といった「ボロ」に批判の矛先を向ける。
いわば、言うだけ番長。
本気で論戦するつもりなどさらさらないのではないでしょうか。
後ほど少し触れますが、そういう意味では政党に限らず、国民広く一般に「与党」意識はないのかもしれません。
2つ目の要因は、テレビ、新聞等のメディアではないかと思います。
政治的な問題が報じられるとき、往々にして、スキャンダラスな点ばかりが着目され、本質的な論点にはあまり目が向けられないのではないでしょうか?
例えば沖縄問題では、メディアは「沖縄に基地を押し付けてはいけない」の一点で、政府側に立って対立点を洗い出そうとするわけでもなく、政府の強硬姿勢を伝えようとします。
安全保障のあり方、在日米軍、普天間基地の早期移転を重視したニュースは聞いたことがありません。ほとんどは、沖縄の人に取材し、沖縄の人、かわいそうですよね、の立場に立ったエモーショナルなものばかりです。
原発の話も、推進派と反対派の論点をすり合わせようとする話はあまり見られません。
また、集団的自衛権の話でも、戦争法案というレッテル貼りがいかにバカバカしいものであるのかといった話もない一方で民主主義の否定!とまた噛み合わない話を取り上げ、集団的自衛権の問題で真の解決に向けて互いの論点を整理しよう、というものはあまりなかったように思います。
では、なぜメディアの報道はあまり本質をついていないのでしょうか?
視聴率やウケを気にし過ぎているのではないかと考えます。
確かに、ややこしく、難しい論点の話をするよりも、映像になり、絵になる話の方が、面白いです。
こんなことがありました。
国民民主党の玉木代表が、米朝首脳会談を控える中で安倍総理に対し、ミサイル合意の話を問うていました。かいつまめば、米国にとって重要なのは自国まで届く長距離ミサイルであり、日本にとって重要な「中距離ミサイル」については自国第一を掲げるトランプによる交渉では野放しになってしまうのではないか?と非常に興味深い質問をしていました。
しかし翌日の新聞、テレビで報じられたのは、「麻生副総理、またもヤジ」
ヤジの中身は、「この人は自分が喋りたいだけなんだ」でした。
恐らく、このヤジ自体は、聞いたことがある人も多いと思います。
重要な論点よりも、そちらの方が大きく出てしまう現実に、悲しくなってしまいました。
そうした、まさにメディアのメディア化、批判すること自体が自己目的化してしまうと、ボロを探し、本当の意味での解決に繋がらない報じ方になってしまうのではないでしょうか
以上、政党とメディアの視点から、かみ合わない要因を考えてみましたが、
その根本には、主権者たる私たちの責任も大きいのではないかと思っています。
正当なものをしっかりと評価していかないと、その芽は無くなってしまいます。
与党の話もありましたが、自分が「与党」のつもりで、当事者意識をもって考えるだけではなく、相手の立場も思いやる、慮ることが、大切なのかもしれません。
社会を分ける問題であればあるほど、または自分の生活に重大な影響を及ぼす問題であればあるほど、そうした思いやりの心はなくなってしまうのでしょうか。
逆だと思います。
大事なものほど、相手の主張にも耳を傾ける。
「自分が絶対正しい」とか、「社会人として負けられない」とか、見栄を張らない。
そうした姿勢が大切なのだと思います。
自分も自分のポジションだけを気にする人間にならないようにしたいと思います。
そんなことを考えました。