映画「プーと大人になった僕」を見ました。
この映画は、まさに自分がモヤモヤと抱えていたものに対してヒントをくれたような気がしています。というか、現代社会に対して大きな問いを投げかけていると思いました。感動しました。
この映画を通して学んだ一番のことは、
「何もしないことから最高の何かが生まれることもある」
ということです。
劇中では、「何もしないことからは何も生まれない」という言葉が何度も出てきます。
クリストファーロビンは当初、仕事に追われ、会社で生き残っていくために、「何かをする」「何かし続ける」(家族よりも仕事に打ち込む)ことを選びます。
しかし、何かをする、というプレッシャーにさいなまれた結果、クリストファーロビンは妻、娘、そしてプーという大切な仲間を失おうとしていました。
そんな中、ひょんなことからプーやピグレットたちと一緒に「何もしない」(純粋に遊びを楽しむ)旅に巻き込まれていくことで、失いかけていた仲間や純粋な心を取り戻すことができました。
劇中では、「何かをする」(必要なことだけを考えてしまう、needの考え方)ものの象徴として、クリストファーロビンの仕事用の「書類カバン」が描かれ、
一方「何もしない」(必要ではないかもしれないけれど、今、目の前のことを純粋に楽しむ、wantの考え方)ことの象徴として、プーがしきりに欲しがる「風船」が描かれています。
プーは、クリストファーロビンに、「風船が欲しい」と言いますが、それは本当に必要なのか?という考え方しかできないクリストファーロビンは、
「風船なんていらない。そんなもの必要なのか?いらないだろう。」と返します。
しかしクリストファーロビンはプーと共に旅をしていく中で、風船そのものだけではなく、「風船」の大切さを感じ取っていくのです。
クリストファーロビンは、途中、プーとはぐれてしまいますが、最後、仲間と協力してプーを見つけ出すことができました。
しかし、本当に彼が見つけたものは、私は「クリストファーロビン」自身だったような気がするのです。
小さい頃一緒に無邪気に遊んでいたプーやピグレット、ティガーに、またその他の人物にも、「君は誰?」「君は本当にクリストファーロビンなのか?」と何度も聞かれます。
仲間との旅を通して「何もしない」ようになるにつれ、次第に彼が口にする、「僕がクリストファーロビンだよ」に力がみなぎっていく気がしたのです。彼の目も、キラキラと輝いています。自信をもって、自分は「クリストファーロビン」だと言える。純粋に遊んでいたころの自分だと言える。そんな人間性を取り戻した気がします。
また、クリストファーロビンの娘・マデリンも、絵本を読んでほしいのに父が読んでくれる本はいつも歴史の本ばかりだし、寄宿学校に入るためだとして勉強が常に課されていました。クリストファーロビンは、それをプーに対して「マデリンは仕事をしているんだ」と説明しています。そんなマデリンも、プーやピグレットたちと一緒に旅をしていく中で、「仕事」に追われて目が死んでいたマデリンではなく、「何もしない」生き生きとしたマデリンに成長していくのです。
そんな二人は、当初仲たがいしていましたが、仲直りすることができました。
まさに、この映画は、「何かをする」「しなきゃいけない」ことに追われるのではなく、「何もしない」ことの重要性を現代社会に投げかけています。
思えば、現代人は、「何かをする」ことに追われすぎているのではないでしょうか。
現代人は忙しいのだと思います。テクノロジーの発達により世界と繋がり、また社会構造、ビジネス状況が大きく変化している中、働く人に求められる基準は、間違いなく上がっていると思います。やるべきこと、「仕事」に追われ、忙しい中で、楽しく過ごすための手段であったはずの「仕事」がいわば目的化し、「仕事」に自分が埋もれてしまう。スマホによって公私の区別が溶け、いつも誰かと繋がって(しまって)いる感覚がある。本当にオフに慣れる瞬間が少ない。
余暇も余暇ではなく、余暇も時間に追われてしまう。限られた時間の中で、いかに効率よく、得るものを得るか。
食べログや、ブログ記事、Instagramはその象徴でしょう。
何かしようと思っても、自分が見たい、食べたい、したいことよりも、「おすすめ」されるものを選びますよね。だって限られた時間の中で、失敗したくないから。効率よく成功したいから。
本でも、「教養」本がブームでしょう。「これ一冊で学び直す歴史」とか、「一冊で分かる芸術」とか、そういう本がたくさん売れています。教養ってそんな簡単に得るものじゃないはずなのに、表面的なものを買って、効率よく身につけようとしている。
見たくないかもしれないけれど、人気のあるもの、話題になっているものを見に行く。写真を撮って、行ったことを自慢する。
読みたくないけれど、必要だから、教養本を読む。身につけたと思って安心する。
けれど、この映画が教えてくれたのは、そういう考え方とは逆の考えなのだと思います。
人気はないかもしれないけれど、自分がビビっときた店に行けばいい。
時には自分の感覚でぶらぶらしてみてもいい。
本なんて、読みたいものを読めばいいし、直接「教養」になるかわからないけれど、遠回りして古典をそのまま読んでみてもいい。無理して小説読まなくても、マンガを読めばいい。
「やった方がいいこと」ではなく、「やりたいこと」をやればいいのだ。
時には寄り道も必要だ。
もちろん、「やるべき」より「したい」を優先すると、おのずと、ハズレも出てきます。最初からアタリだとわかってるものを選んだ方が、そこだけで見たら、後悔はないのかもしれません。
でも、人生、それだけではつまらないと思うのです。それって知らない世界に足を踏み入れているように見えて、実は視野狭窄に陥っている。余暇も「仕事」になってしまっている。本当に楽しむことはできないのではないでしょうか。
現代人は、もっと余白を持った方がいいのではないでしょうか。「ムダ」といってみてもいい。
そこだけで見たら無駄かもしれないけれど、「自分がしたい」ことを考えてみる。「したいこと」を選んでみる。俯瞰してみたら、それは無駄ではなく、「ムダ」なのだと思います。
その「ムダ」の多さこそ、人の魅力を作っていくのだと思います。
自分自身、何をやるべきか、を考えがちだったので、この映画に出会えたことで考え方が狭くなっていたことに気づかされました。自分も余白の大きい人間になりたいと心から思えた映画でした。
自分自身への反省も込めて、自分の考えをまとめてみました。